第三章 端島に住んで 1 四半世紀の空白 タイムカプセル 平成一一年(一九九九)に同窓会で二五年ぶりに里帰りし、上陸した(その時は上陸禁止とは知らなかった)。自分の住んでいた部屋に行くと懐かしいタンスや火鉢、柱に残る傷、そして私の使っていたノートや教科書がその当時のまま残っていた。二五年前にタイムスリップしたような不思議な感覚で、見るもの触るものが当時を静かに語ってくれた。二五年前の自分の筆跡や落書きに、思わず頬ずりししたくなる感覚は、たぶんタイムカプセルを開けた瞬間の懐かしい思いと同じだろうと思う。同窓生の中には、母親の形見の家計簿を見つけ感慨深そうに持ち帰る者、自分が中学生のときに作製したブックエンドを懐に抱える者、さまざまな思い出が二五年の時間を経てよみがえり、ここに帰ってきたという現実に、われわれは戸惑いながら、残っているふるさとの痕跡に言葉を失っていた。無残に朽ち果てた島の現状に複雑な思いはあるにしても、ふるさとはわれわれをいつまでも待っていてくれたという思いに、深い感慨がそれぞれの胸にあったのだろうと思う。帰りの船上で「もう二度と来ることはないなぁ」とこれが最後だという者、「また来るから」とつぶやく者、それぞれの思いのふるさとを二五年ぶりに感じたのだ。しかし、この島に帰ってきても、もう住むこともできない。このタイムカプセルを開けたことが果たして良かったのかどうかは誰にもわからないが、私自身は、このさき遠くから眺めるだけで故郷として感じていければいいと思いつつも、思い出だけはここにきちんと残していたいという気持ちが交差し、複雑に揺れ動いていた。 同窓生で上陸を望んだものは、四五名の中で最初はたったの一〇名ほどだった。最初から島へ行きたくないと絶対的に拒否する者、そしてぜひ行きたい者、二つに分かれた選択肢の中で、最終的に二七名が上陸した。残りの者は上陸することなく、対岸の野母崎からこの島を眺めるだけで満足した。やはり開けてはいけないタイムカプセルだったのか。いまでも私にはわからないけれど、こうやって現在、端島が注目されはじめてくると、彼らや元島民の複雑な心情を考えざるを得ない。この島で生活し、思い出を持つ多くの人たちが、今のこの島を見るときに複雑な思いを持たざるを得ない現状に、一人ひとりが持つタイムカプセルを開けてしまうのに躊躇する気持ちがわかるような気がする。 石炭の島 端島は炭鉱の島である。したがってそれ以外の産業はあろうはずもない。端島に住む人は石炭を掘り出すという、究極的にはただそれだけのために働いていた。日本の明治・大正から戦前・戦中期、戦後復興期まで、端島ほど、そこに従事する人たちの命運が歴史に左右された事例は他にないといっても過言ではない。 戦後の混乱期を克服した日本は、石炭と鉄鋼を基幹産業に据え、その後の高度成長期へ驀進した。戦後、国策により石炭増産に重点が置かれると、石炭産業はにわかに活況を取り戻し、それは端島も例外ではなかった。昭和三十年代、端島は長崎市や、博多を抱える福岡県よりも裕福であり、なにごとにおいても先進的であった。これが端島の黄金期であったことは疑う余地もない。私の聞いた話では、端島の人は「買い物」が贅沢だったという。女性の化粧品や衣類も高級品ばかりを買っていたそうであるし、家電ブームのときには端島の普及率は全国的にも高かった。また、給料日を狙って、わざわざ長崎市の業者が商品を持ってきて売っていたそうである。しかし、その後の石炭を取り巻く環境は激変し、日本の炭鉱の運命はいまさら説明する事柄でもない。それでも端島は昭和四九年(一九七四)まで操業し、高島は昭和六一年(一九八七)、池島は平成一三年(二〇〇一)まで永らえた。日本の石炭産業は、平成一四年一月の北海道太平洋炭鉱閉山をもって終焉したが、この一連の出来事は、日本の将来を暗示しているようで非常に恐ろしい。すなわち戦前、戦中は曲がりなりにもエネルギー自給ができた時代であり、戦後の一時期もそれは継続できた。しかし、つぎつぎに起こった炭鉱の閉山は、裏を返せばエネルギー自給を放棄したことであり、太平洋炭鉱閉山はその象徴である。日本は島国である。しかもエネルギー自給ができない環境にありながら先進国となった、極めて希有な国家である。そのことが現在の端島と重なり、ことごとく共通点が見いだされることに恐怖を感じる。端島は未来の日本の姿なのか? そう思いたくはないが、現在の廃墟と化した端島の姿を見るたびに、その栄枯盛衰が、エネルギー自給ができない日本と重なり、いかにも末恐ろしい。端島は、これからの日本を示唆しているものとして、現代日本の戒めとすべきであろう。それは、われわれ日本人にとって肝に銘じておくべきことである。 まさにこの島は炭鉱だけの島だった。 私の生まれは筑豊(福岡県)である。そこも炭鉱の町であった。生まれながらにして炭鉱だけの町に私は住み続けた。それは私の人間形成に大きな影響を与えることになった。いまでも「炭鉱」という言葉にふるさとを感じ続けている。しかし、そのふるさと炭鉱の面影は、無残にも昭和四九年を境に消えようとしている。いや「炭鉱」という固有名詞自体が存続の危機に瀕している。 先日、軍艦島クルーズで小学校四年生から中学二年生くらいの子供たちをガイドした。その前夜、高島町でおこなわれたキャンプファイヤーの前に、子供たちに「たんこう」という言葉を知っているか問いかけたときに、「たんこうって高校と短大の間じゃない」という笑うに笑えない答えが返ってきたという。その夜のキャンプファイヤーの火は石炭から起こしたものだった。 私の場合、石炭の思い出は石炭そのものよりも、そのカスからできる燃料にある。筑豊での生活の中で、豆炭は電化の前の炬燵、つまり掘り炬燵の燃料として大切なものだった。七厘に火を起こすのが子供たちの夕方の日課であった。七厘とは、炭火を起こしたり、煮炊きをしたりするための簡便な土製のコンロのことである。 電化、ガス化される前は、その七厘に火を起こし、お湯を沸かしたり煮炊きのための竈代わりであった。生活のすべてにおいて石炭の恩恵を受けていたことになるのである。 しかし端島に移り住んでからは、七厘の日課もなくなり、急激に電化、ガス化されていった記憶がある。電気炬燵、ガスコンロ、私たちはそのつらい日課をこの島に来ることによって免れることになった。そしてテレビも、どこの家庭でもそうだったように、我が家でも当然のように家族の部屋の真ん中に位置していた。狭い間取りだから家族はみな同じテレビ番組を見ることになる。その当時(昭和四十年代)を考えると、テレビ、洗濯機、冷蔵庫、ステレオ、炊飯器など電化製品は多くの家庭に普及していた。隣が買えばこちらも買うという見栄もあったかもしれない。まだ炭鉱が続いていれば部屋中、電化製品だらけになっていたかもしれない。しかし炭鉱でありながら、皮肉にもエネルギーとして使っていたのは石炭ではなく、ほとんどが電気でありガスであった。食べるものを除けば、ほとんどタダ同然の生活ができた(電気代が五円くらい、ガスボンベも年間四〇〇円ほど、水はタダで、家賃は一〇円くらいだったらしい)と聞かされているから、余剰の金で、かなり贅沢な商品を購入していたのである。 こういう贅沢な生活ができたのは、炭鉱の島であったことが最大の要因である。石炭を掘り出すことで島の快適な生活と安心を得られたことに感謝すべきだったろう。炭鉱以外の産業はなく、それがなくなればすべての生活の基盤がなくなる。島は機能しなくなってわずか三カ月で無人となったのである。石炭のエネルギーが、われわれの生活を支え、その恩恵を消費しながらこの島は生きていた。まさに炭鉱そのものの島であった。 2 島の暮らし、ヤマの暮らし 島との別れ 昭和四九年(一九七四)の三月だったろうと思う。正確な日時は忘れてしまったのだが、高島高校を卒業した私は、長崎市内の大学に通うために市内で下宿をしながら、小遣いや生活費が足りなくなると親に無心するため大波止から船で島に戻っていた。その日も何気なく船(せい丸)に乗り島へ向かっていた。季節的には少しずつ暖かくなり始めた春の日であった。高島を過ぎ、中ノ島に見え隠れする端島をいつものようにぼんやりと眺めながら、「さてと今日は久しぶりに上風呂にでも行こうか」などと呑気に考えながら、島の港であるドルフィン桟橋に船が近づくのを待っていた。この島への上陸は船の二階部分からすることになっている。ドルフィンの高さと船の高さが、ちょうど船の二階部分くらいになるのだ。ふつう港の船着場は、船の乗降は一階部分の安全な場所からであるが、端島の場合は、港と呼ばれるような波おだやかな波止場はないのだ。島からぽつんと飛び出したこの丸いドルフィンと呼ばれるコンクリートの塊だけが、唯一、船の接岸のためにあるだけである。台風のたびに何度も壊されて、唯一いまでも残っている最後の桟橋である。人が乗降するための船の接岸においては、むかしの人たちはほんとうに苦労し、さまざまな工夫がされてきた。昭和三十年代の乗客は、大きな船での接岸ができないために沖合いで伝馬船に乗り換えて、縄梯子で島への上陸を余儀なくされた。女性は大変だったろう。まさに命がけの上陸風景だったといっても過言ではない。 海はいつも凪の状態ばかりではない。荒れる日にも船が到着すれば接岸の手続きを始める。船が上下左右に揺れる中で、ちょうどドルフィンと船の位置が水平になったときに木橋が船のデッキに渡される。その瞬間を見計らって、私たちは「走れ!」の号令の元に船から桟橋に向かって木橋を渡るのだ。桟橋は動かないが船は波の気まぐれで上下に、そして左右に揺れる。そして木橋と船が均衡を保てなくなったとき無常にも木橋は桟橋側に瞬時にロープで引き取られていく。再度、船は波に揉まれながら体制を整え、接岸を試み桟橋に挑んでいく。そんな繰り返しをしながら、乗客は我先にとこの木橋を渡っていったものだ。 ある日、いつものように荒れる船での接岸時に、私の妹がその木橋に片足を乗せようとした瞬間、木橋が桟橋側に引き取られ、バランスを失った妹の身体が船と桟橋の空間に……「落ちる!」誰かの恐怖の声が聞こえ、私は「あっ!」という言葉以外に何もその先のことは想像すらできなかった。しかし次の瞬間、妹の手は、父の手によって掴まれ、妹の体は引き上げられた。父親のとっさの判断で大事には至らなかったが、いまでも忘れられない瞬間である。そんな命がけの上陸は私だけではなかったろう。先人たちのさまざまな工夫で今のドルフィン桟橋が完成した。いまでは遠い思い出だが、恐怖感はこのドルフィンを見るにつけ思い出される。いまでもなおこの島の玄関口として残っている。 そのドルフィンに船が接岸し始めた。今日は凪で穏やかだから、あわてて降りることはない。しかし桟橋に異様な光景を目にしたとき、私は気持ちは穏やかさから不安に駆られていった。そこには父と母が他所行きの服装をして立っていたのだ。とりあえず上陸をして「どうした?」と母に聞くと、「いまから広島に行くから」という言葉が返ってきた。「ああ、そうか!」、予期していたものが現実としてそこにあった。「閉山したんだった――」それを実感したのはこのときだった。私がいつものように帰ってきた島に、父母はもうすでに別れを告げて、この島を去るときだったのだ。現在のように家庭に電話や携帯電話などない時代だから、両親への連絡はほとんどすることもなく、一方的にこちらから島に帰っているような状態だったので、今日島を出て行くとは思ってもいなかったのである。閉山のことは知っていたが、まだしばらくはこの島の生活が継続できると思っていた自分の甘さと、突然の島の生活の打ち切りに唖然としてしまった。まだ閉山式から二カ月もたっていないのに……。父は炭鉱を離れて新たな生活を広島に見つけていた。父四一歳、私は一九歳だった。まだまだ働ける世代の父にとっては、一七歳からの筑豊、そしてこの端島での炭鉱生活を、自ら捨てざるをえない苦渋の二カ月だったのであろう。炭鉱という身体に染みついた生活を捨てて、炭鉱と関係のない新しい仕事に就くことの、さまざまな葛藤があったに違いないが、父がふたたび炭鉱を選ばなかったのは、やはり炭鉱で負った目の傷や腰の痛みが判断させたのだろうと思った。そして私は、六五号棟九階の自宅に帰ることなく、そのまま両親といま乗ってきた船に乗り込み端島を後にした。それがこの島との最後であった。青春の多感な時期を過ごした島であったから寂しい気持ちはあったが、幸いなことに私はそのときすでに高校も卒業していたから、島の仲間に送られることなく島を後にできた。もし在学中の別れであったら、みんなが桟橋で紙テープを持って送ってくれていただろう。たぶんそのほうが、たまらない気持ちになって涙が出ていただろうと思う。あっけない端島との別れであったが、それでよかったと思っている。端島での楽しい思い出は折にふれ思い出す。忘れたことも多くあるのだが、この最後の日のことだけは忘れようにも忘れられない。 これと似たようなことを語ってくれた人がいる。 いま私は端島の長老たちの聞き取り調査をしているが、その中で必ず尋ねることは、「端島での一番の思い出」なのであるが、あれこれと面白い思い出を語ってくれる中で、一人だけこう言った人がいた。 「楽しい思い出はいくらでも話せるが、思い出したくない一番大切な思い出がある」 それは、人との別れである。「嬉しいにつけ悲しいにつけ、職場のこと、家族のことなど、あれもこれもよかったなと思い出すんだが、事故で亡くなった同僚の家族が島を去っていくときの辛さは、思い出したくない思い出だ」というのである。そして閉山の後の、一人また一人、島を去っていくときの悲しさは、最大の思い出したくない思い出になってしまった。たった三カ月の期間に三〇〇〇人近くの人たちが別れていく様は、なんとも形容しがたい出来事だった。まして仲の良い家族のような付き合いをしてきた人たちだったから余計そう思うのである。あれから三〇年、端島はその悲しみをまだ知っている島なのである。 六五号棟の生活 私が最後に住んでいた六五号棟の九階は、棟の最上階にあたる。正式名称は「報国寮」と呼ばれ、昭和三三年(一九五八)に新六五号(一〇階建)が建設されるまではL字型であった。屋上には端島幼稚園(保育園含む)があった。島の中では一番のマンモス棟で、昭和四十年代には約三四〇世帯が暮らしていた。コの字型の建物下には公園があり、一日中、子供たちの声が聞こえにぎやかな場所だった。 コの字型だから互いの部屋のベランダが向き合い、私の住んでいる九階の部屋のベランダは、各世帯のベランダが全部見えるような位置にあり、夜には各部屋の電灯がともり生活が手に取るように見える。潮風が吹いていないときには、ベランダにはファッションショーのように色とりどりの洗濯物が垂れ下がっていた。厚手のカーテンを引くこともなく、互いの生活が見えようとも誰も隠そうとはせずに、それぞれの生活のパターンの中で暮らしていた。また、あえて覗くようなこともなく、プライバシーを気にすることもなく、あるがままに生活していたようだ。 この張り出しのベランダに畳を一枚敷いて、父親が私の部屋を造ってくれた。この島の平均的な家族構成は親子五人暮らしであったが、多いところでは八人家族で何とか暮らしていたところもあった。どこの家庭も六畳と四畳半と台所程度の狭い部屋ばかりだったので、少し空間があると、そこに部屋や小屋を造ったりして、できるだけ効率よく使用していた。いまでも船から眺めると、その名残が見える。また、まだ電話も各家庭には普及していないころだったので、あちらこちらのベランダから「今日一〇時の船に乗るけん、一緒に行かんねー」とか、夕方になると下の公園で遊んでいる子供たちに「もう帰ってこんねー、ご飯ばーい」などと声が飛び交い、ちょっとした連絡にはもってこいのベランダの使い方だった。 各家庭をつなぐ廊下は、向き合う部屋の真ん中に位置していたため昼間でも暗く、一日中、裸電球が灯いて、風の強い日や雨の日は、洗濯物で埋め尽くされていた。子供にとっては、天候の悪い日の唯一の遊び場であり、廊下の端々で、ままごとやボーリング、ボール投げなどをして遊ぶ姿がよく見られた。 また、この六五号棟の特徴は階段のスペースがかなり広く取られていたことだ。コの字の角と端に階段があるのだが、幅や段がゆったりとした傾斜で、上り下りにはお年寄りにもやさしい階段だったような気がする。狭い島の中で、建物の階段にこれほどのスペースを取り入れているのは、エレベーターもない建物だったからである。こんなところに人の知恵とやさしさがあったのかもしれない。 ある夜、母親が喘息の発作を起こした。いまにも息が止まりそうなほどの激しい発作である。この島に救急車はない。とにかく病院に運ぶしかないと父親と二人で母親を背負っていくことにした。病院は住んでいた六五棟の隣にあるが病院とは廊下で繋がっていないため一階までくだらなければならない。父が半分の五階まで、残りの四階は私が背負って下っていった。病院では酸素吸入の応急処置をしてもらい、何とか母は落ち着きを取り戻し、息遣いも次第に正常に戻ってきた。帰りはまた九階までの階段を、父と二人で交替で母を背負って上った。母の体重の軽さもあったかもしれないが、この階段の上り下りがそれほど苦痛でなかったのは、階段のスペースや傾斜にあったような気がする。後で聞いた話であるが、足の運びが緩やかな設計になっていたということだ。しかし新六五号棟などの新しい建物になると、階段も狭く傾斜も比べ物にならないほど急になっていた。時代のおおらかさが少しずつ変化していったのではないだろうか。 夕方になると、どの部屋にも明かりが灯きはじめて、私の家では一番方から帰った父の仲間が集まって酒盛りが始まる。父たち鉱員の勤務は三交代で、一番方から三番方まであった。一番方は午前八時から午後四時、二番方は午後四時から深夜一二時まで、そして三番方は深夜一二時から翌朝の八時までである。島には「白水苑」というモダンなスナックバーのようなところもあったのだが、なぜか父親はそういうところは好まず、もっぱら自宅が酒場であった。親に連れられて白水苑でカクテルを飲んだなどという同級生の話を聞くとうらやましく思ったものである。父はそういったモダンな雰囲気に自宅を仕立てるために、電球や蛍光灯をセロハンで被って色をつけ、楽しそうに酒を飲み、そして議論が始まる。私たちは隣の部屋で自分たちの世界で遊んでいればよかったのだが、夜も更けていくと議論が白熱し、きまって喧嘩が始まる。二間の間取りだから大きな声と物音は筒抜けである。そうなると子供は自分の世界でのんびりとはしておれないので、家を飛び出し近所の友達の家へ避難する。私にも隣のおじちゃんが「収まるまでうちで寝とかんね」と声をかけてくれるのである。いつものことだから言葉に甘えて寝かせてもらったりしていた。そこが同級生の家であったことを、同窓会で改めて思い出したのである。喧嘩がいつ収まったのか知らぬままに、翌朝までお隣に寝ていることもよくあったが、翌日には父は朝から坑内にもぐり、また夕方には酒盛りが始まるのである。昨夜喧嘩した仲間といっしょに何事もなかったように。喧嘩をする親も親だったが、それをいつも見守ってくれた近所の人たちの優しさは今でも忘れられない。同じように近所で喧嘩があれば、私の家が子供の避難所にもなったのだから、互いが困ったときには力を貸してくれる環境があったのだと思う。こういった近所の連携が子供には嬉しいものだった。食事においても、自分の家のおかずの中には、ときどき近所のおかずも紛れ込み、母親以外の味もいただけたのである。多くつくりすぎたというものの、近所へのおすそ分けも念頭に置いた夕方のおかずつくりだったのだろう。六五号棟は廊下を真ん中に両側に互いの入口と炊事場があるので、夕方になると、さまざまなおいしそうな匂いが廊下に充満する。高層住宅とはいえ長屋生活そのものだった。 トイレは共同で廊下の端にあるので、夜ともなると子供は長い廊下をトイレまで行くのに怖い思いをしたのだが、だいたいにおいて、どこかで玄関が開く音がすると、それに合わせたように他の玄関からも子供が出てくるのである。そういう意味では近所の物音はひとつの合図となり、子供にとっては渡りに船のようなコミュニケーションであったのだ。 それとこの島の建物の特徴は、離れた建物をスムーズにつなぐ空中廊下であった。つまり九階から隣の建物に移動するのに、わざわざ地上まで降りなくても、途中の七階や四階からこの廊下を通って移動できるのである。島には九階建ての「日給アパート」(一六~二〇号)と呼ばれる住宅があった。かつて職員は月給制、鉱員は日給月給制で、このアパートには鉱員が主に住んでいたことから、こう呼ばれていたということである。この日給アパートと八階建ての五一号棟は各階ごとに渡り廊下があった。五一号棟には地階があり商店があった。ウミノ酒店と鐘ヶ江酒店、永田電気店である。学校まで雨に濡れずに通学できたというのは少しおおげさだが、雨の日に傘や長靴を履いた記憶はほとんどないのである。他のアパートへの用事のときに最短の距離で目的地にいけるなど、それほど便利で人の移動には欠かせないものだった。住んでいたときには当たり前だったが、いま考えると本当に便利な廊下であった。 一部の職員住宅を除いて、鉱員が大部分を占めたこの島の住人の部屋は、ほとんどが二間の八畳と六畳か、もしくは六畳と四畳半の狭い居住空間であったが、それほど狭いとは感じなかった。現在の生活では親子五人では窮屈と思うかもしれないが、その当時は、与えられた空間でいかに効率よく生活できるか、いかに快適に過ごせるかを考えて住んでいた。同じ間取りでありながら、調度品などでがらりと部屋が違って見えたり、ベランダに一部屋造ったりと、住むためのあらゆる工夫がされていた。空中廊下は、この島の狭い生活空間全体を効率よく快適にと、人々が考え工夫したものであると思うのである。いまでもこの島に住んだ人たちの多くは、住みやすかった、みんな仲が良かったと言う。それは狭い空間で人と人が快適に生きるために、いさかいや揉めごとを最小限にくいとめる努力をしてきたからではないだろうか。狭かったからこそ、そういった生活の知恵が自然に出来上がったのだろう。こういったことを考えると、人と人とのコミュニケーションが密であったと同時に、建物同士にも優れたコミュニケーションがあったと理解できるのである。 定期船 毎朝七時一五分、中ノ島の島影からにゅうっと黒い船体を現してくる。「やっぱり、来るのか」ため息混じりに、われわれ端島の高島高生は口をそろえる。 波はかなり荒れている。風もかなりある。たぶん三便目から欠航だろうなと思いつつ、この黒船(朝顔丸)が来れば、われわれは乗船して高島へと向かわなければならない。当時は、この一便だけが高島と端島を結ぶ会社の定期船として運航されていたのである。その後の二便目からは、長崎から来る「せい丸」「つや丸」が一日一〇便ほど長崎―伊王島―高島―端島をつなぐ定期船として閉山まで運航されていた。こんな荒れた日の乗船の判断は、端島に常駐している高校の先生の判断に任せられる。向こうで女生徒が「先生、絶対にせい丸(三便目)は欠航するから、止めとけば」と言っているが、先生は首を縦に振らない。しかし南西の風が強まってくると海も時化だし、ほとんど三便目くらいから欠航するのだ。それを見越して先ほどの女生徒が先生に申し入れたのだが、新人の先生ほど海の判断がつかず、教師の使命として学校に行くことを決断するのだ。その日も高島までは朝顔丸が波を蹴立ててなんとか到着したが、かなり時化てきているのは私たちもわかっている。とりあえずは学校までの山道を上り、高校に到着してホームルームの時間が始まるやいなや校内放送が入る。「端島の生徒は、三便目から欠航ですので直ちに二便目の船で下校するように」……心では「やっぱり」と思いながらも「やったー!」と声には出さず、高島の生徒のうらやましそうな顔を尻目に、いま来た山道を下っていくのだ。「先生、やっぱりやったろう」とさきほどの女生徒が笑いながら先生に声をかけていた。時化たときの船は遠くから見ると、波にのまれながら舳先が空に向かって飛び上がるように見える。私たちはその船内で、船が下へ突っ込むときジャンプし、船が次の波に乗り上げる瞬間に着地するようなスリリングな遊びを楽しんでいた。こうして端島へ、この日の最終便(欠航のため)に乗って帰ってくるのだが、端島へ到着するとその足でそのまま島の公民館へ向かう。そこで自由学習をするのだが、一日ではなく昼には解散していたような気がする。高島の生徒には申し訳ないけれど、半日の休日があったのだった。しかし、かろうじて欠航前の船で帰れたときはいいのだが、たまに海が急に時化だした時には、長崎からの船は迎えには来てくれない。そんなときは高島に宿泊するのだが、一応、高島には端島の寮があったけれど、ほとんどは友達の家に泊まっていたようだ。ただ、いつも行き慣れている端島の風呂と違って、高島は人口も多く風呂はいつも満杯だ。それでも同じヤマの仲間の風呂だから裸の付き合いはできる。 日曜日には多くの人が長崎へ出て行く。中学生までは保護者同伴で、かならず学校から証明書をもらわなければ端島から出られない。そんな手続きは面倒だったが、やはり島にないさまざまな刺激を味わったり、本や衣服などを買いに長崎へ行くのが休日の楽しみであった。証明書を持っていれば、会社の補助で乗船券も一般の人より安い金額で購入できた。筑豊から端島に来た当時は、船酔いに悩まされ、船に乗るのが嫌な時期もあったが、二~三カ月すると慣れてしまって、ほとんど船酔いもしなくなった。それよりも島にない何かを求めて長崎へ行く魅力が、船酔いなどしていられないほど大きかったのかもしれない。 長崎港には今でも大波止ターミナルという船の発着場がある。ここが長崎市への玄関口であった。長崎市内の「浜の町」がメインストリートで、ここのアーケードが私たちを満足させてくれたところである。いまでも変わらない賑わいであるが、やはり三〇年という時の流れは、町のところどころにしか建物や店の面影を残さず寂しい気がする。島には生活するに十分な施設があったとしても、それは最低限のものでしかなかった。長崎の町でさまざまな刺激を受けながら、また島へと帰っていくのである。それが休日の楽しみであったことは誰しも同じであったろう。車や電車で簡単にいける場所ではなかったから、余計に多くの夢を長崎に求めたのだろう。今でも大波止に来ると、あの頃を思い出すのである。 トイレ トイレは水洗ではなく落とし便所といわれ、モノは下へと落ちていくのだ。落とすといえばゴミも各階にダストシュートが設けられ、そこから落としていた。すべてにおいて効率的に建物の機能性を追及した結果の設備だったといえる。下に集まったゴミはリヤカーで焼却炉まで運ばれた。今のようにゴミの分別が厳しくなかった時代だから、ゴミを捨てる苦労は無かったようだ。むかしはそのままゴミを海に捨てていたようだが、衛生面での規制により中止された。 私が六五号棟に移る前にいた一六号棟、一七号棟などの日給アパートにも内トイレはなく、みんな共同トイレだった。昼間でも裸電球を灯けるほどの暗さなので、夜はトイレまで足を運ぶのに少なからず恐怖感があったのを思い出す。だから部屋を移るときには、できるだけトイレに近い部屋になるようにと祈っていた。むかしは部屋を移る(引つ越し)ことは点数制で(砿員や職員の勤務状況や、家族の人数などによって点数が配分され、点数によってランク付けされていたが、昭和四一年前後に廃止されている)決められ、簡単にはできなかったようだが、私たちが過ごした時代は比較的簡単に、部屋さえ空けば引っ越しできたようだ。都合八年間で三回の引っ越しを重ねて、最後はこの六五号棟で閉山を迎えたのだが、最後までトイレ付の部屋に住むことはなかった。いま思えば笑ってしまうのだが、ゆっくりと自分の家のトイレを使うのが夢だった。 そんなわけで、私の使ったトイレはこの端島を離れるまで常に共同のトイレだった。生活の中でのトイレの占める割合は大きな存在だ。ゆっくり用を足せる場所、考える場所でもあったはずだが、共同であるためにそんなゆとりも許されず、とにかく用を足すためだけのものだった。だいたい二軒で一つのトイレを使用していたし、トイレのドアには名札があって清掃なども共同でやっていたから、けっこう清潔であった。しかしこのトイレは、いまのような水洗ではなく排水勾配という自動的に垂れ流す方式で、いわゆる「落とし便所」であった。最上階に住んでいるものは気にならないが、下に行くほど土管を伝わってモノが落下してくるわけだから、常に騒音の中での用足しであった。だから下の階にいくほど臭いも音も強かったようである。下まで落ちた用便は地下排水溝から処理槽を通って海に放流されていたらしい。ただ学校は水洗トイレであった。 全島の約八割は共同のトイレであった。しかし私の覚えているかぎりでは、ほとんどの職員アパートにはトイレが室内にあり、私たちの父親たち鉱員社宅は、ほぼ共同のトイレであった。職制の身分ははっきりとあったのであろうが、子供の感覚ではそれを差別だとは感じていなかった。ただ、そんな社宅がうらやましかっただけのことである。三号棟(島の最上部の建物)はトイレも風呂も完備した社宅であった。同級生に何人か住んでいた者がいたが、そういえば共同風呂で一緒に入ったことがなかったなと、今頃になって思い出すのである。 風呂 「四時に下風呂に行くけん、待っとって…」学校が終わると、そんな声が聞こえてくる。風呂は私たちの第二の社交場であった。第一は学校であるけれども裸同士の付き合いは、やはり風呂である。島には上風呂、下風呂、三一号棟の地下風呂があった。上風呂は下風呂よりは狭いものの三〇号棟近くの山間にあるため窓があった。明るくて一番のお気に入りであった。下風呂は六一号棟の地下にあり、比較的広く、大人でも二〇人近く入れたのではないだろうか。しかし三一号の地下風呂には一度っきりでいかなくなった。いちばん狭く、なんとも居心地が悪かったのである。いまでいう銭湯であるが、お金を払うことはない。炭鉱の共同風呂は、すべて会社の経営なのでお金は要らなかった。しかし風呂に入る時間帯は決められており、たぶん昼三時から夜八時までだったと思う。 「風呂は八時までにはいりませう」という看板が、浴場の中に(記憶違いでなければ)あったと思う。ただ、この浴場ではほとんど父親たちとは顔を合わせることはなかった。父親たち鉱員は鉱員専用の風呂に入って帰ってくるから、こちらは女性や高齢者と子供たちばかりの風呂だった。だから三時過ぎの一番風呂から六時過ぎまで遊んでいたものだ。とくべつ風呂が好きだというのではなく、仲間とのいろんな話が楽しかったのだろう。気がついたら二~三時間というのはざらだった。そんななかで、いたずら好きの仲間は壁ひとつ向こうの女性風呂に関心を持ちすぎて、いまでは犯罪だが、どうにかして覗こうと悪戦苦闘していたのを思い出す。 風呂上りには野母商店という店で、かならず冷たいジュースを飲むのが最上の楽しみであった。いつも小遣いを持っているわけではないので、先輩たちの後ろにくっついていく。そうすると意外にもおごってくれるのである。この野母商店に「野母のかよちゃん」とみんなに呼ばれる女性がいた。端島の島民で知らぬ人はいないくらい親しまれていた女性である。いつもニコニコと笑顔で私たちを迎えてくれた。風呂上りに、気がついたら湯冷めするくらいに長い時間立ち寄っていた場所である。いまでもお元気で、電動の車椅子に乗った姿を長崎のあちらこちらで見かける。年齢不詳のため私たちにとってはいつまでも「野母のかよちゃん」なのである。 下風呂は地下にあって、入口にコンクリートの波除け庇がついていた。波が荒い日には、この庇を大きな波しぶきが飛び越えてくる。そこで私たちは一回目の波しぶきが庇の下に落ちた瞬間を見計らって、「だー」っと駆け出し、近くの建物の入口に飛び込むのである。一瞬でも遅れると次の波の餌食となって潮まみれのずぶ濡れになる。この絶妙なタイミングを、私たちは船の乗り降りの際のスリルと同様に楽しんでいた。この島での生活には、そのタイミングを図る行動や走り抜けるという行為は日常茶飯事で、いつも誰かの掛け声や号令で動いていたような気がする。 もうひとつ、風呂が共同であったことで同級生との身体の変化を認識できたことも、子供自身の成長の過程で大きな意味を持っていたと思う。 また女性風呂では赤ちゃんなどと一緒に入浴すると、みんなが助け合って面倒を見てくれたそうである。母親が身体を洗っているときにあやしてくれたり、交代で面倒を見合ったりと、そうやって何人も子供を育てた女性が、しみじみと語っていた。自分ひとりだけで子供を育てたのではない、こういった地域の人たちの協力があって、互いの大変なところ、弱い部分に手を差し伸べあったからだと、いまでも感謝していると話したのが印象深い。 どこの地域でもそうだろうが、銭湯が徐々に姿を消していると聞く。そうなれば他人と風呂に入る機会も減ってきているだろう。いまの子供たちが共同風呂に入るのは、修学旅行での温泉くらいだろうが、それでも裸で入浴しないのだと聞いた覚えがある。水着を着てからの入浴らしい。なんだか想像するとおかしな気がするのは私だけであろうか。私たちは、生まれて成人するまで、ほとんどが共同の風呂だったから違和感はないのだが、私は裸同士の付き合いがあったからこそ、いまでも友人との絆が途絶えないのだろうと思っている。 屋上 この島の建物の屋上は、島のコミュニティを語るうえで大きなウエイトを占めている。一般的な屋上にはない、さまざまな使われ方をしていた。当時の屋上には、端にテレビアンテナが一メートルおきに競い合うように並ぶアンテナの林を形成していた。私たちの時代にはベンチもありブランコもあった。夏の夕方になれば、一人、二人と知らないうちに人が集まってくる。ここでギター片手に歌う者、小学生もいれば中学生も、そして近所のおじさん、おばさんも、いろんな意味での溜り場であった。屋上に行けば誰かが居る……そんな感覚で、狭い部屋にいるよりは、この場所がいちばん開放感があって楽しかった。 私も屋上に近い自分の部屋の窓から島の建物を見るのが好きだった。屋上を見渡し、友人を見つけてはそこに移動していくのである。ちょうど見張り台のようなものだった。 夕闇が迫ると、水平線に漁火が灯りだす。この島の部屋にも明かりが灯り、遠くから見ると、たぶん巨大な客船のようだったと思う。私たちは緑の屋上で、そんな夏の一日の夕刻をのんびりと終えるのだった。また屋上は、唯一のデートの場所でもあった。思春期の子供たちにとって、狭い島での隠れたデートコースが屋上であり神社であった。高い建物の屋上ほど秘密めいていて格好の場所だった。そういった意味では男女交際はかなり開放的だったのかもしれない。屋上に上ると、かならず一組、二組のカップルがいた。ただ、狭い島なので、誰かさんと誰かさんが…という噂は、あっという間に広がるので、隠し事などほとんどできなかったのも現実だった。また自宅にクーラーなどない時代であったから、暑い夜は寝る場所でもあった。ゴザを敷いてその上で寝るのだが、ひんやりとして気持ちよかったことを、今でも覚えている。 屋上は各アパートごとにさまざまな形態があったが、いちばん印象に残る屋上は日給アパート(一六号棟~二〇号棟)である。この屋上は、今でも唯一緑が残る、島で緑が豊富にあった屋上である。アパートの屋上には、最近注目されている東京六本木ヒルズなどと同じような屋上庭園が、すでに存在していた。しかし、現在のような都市ヒートアイランド現象の緩和が目的ではなく、どうにかして島の子供たちに土のぬくもりや植物の生育に関心を持たせようという、情操教育の一環として実現したものである。緑の大切さを教えるために、土地の少ないこの島で唯一あった屋上を利用したのである。屋上菜園は子ども会の管理のもとで、きゅうり、トマトなど、さまざまな野菜を育て収穫していた。「緑なき島」として紹介されることが多かったこの端島だが、意外にも緑が豊富であった。ベランダや廊下の端々で、植木鉢にさまざまな花や草木を育て慈しんでいた。それほどまでに、この島の住人は緑を大切にし育てることで、小さな空間に安らぎを求めていたのかもしれない。それだけ緑に対する餓えがあったのだろう。この菜園は今でも日給社宅(一六~一九号)の屋上に名残がある。 動物(犬、猫)を飼っている人はいたが、その動物に対する慈しみと同様に植物に対する慈しみを子供たちに教えるための屋上菜園だったのであろう。一見建物だけが乱立している島のように見えるが、この狭い空間で、知恵を出して取り組んだ緑の育成は、「緑なき島」へのささやかな抵抗だったのかもしれない。 学校 学校は七階建てであった。四階まで小学校、六階に講堂(体育館としても使用した)があり、左右に図書館、音楽室があった。五階、七階が中学校である。教室の数は小学校が二クラス(四〇名前後)、中学校も二クラスで(四〇名前後)、総勢三六〇名くらいの児童、生徒がいたことになる。朝は小学生、中学生が、一階の下駄箱でバタバタしながら上履きに履き替え、各自の教室に散らばっていく。小学校の幼い騒音と中学の少し大人びた騒音が重なりあった賑やかな学校である。小学生が中学校のある上の階に行くのには勇気がいったものである。職員室は三階にあり、小学校と中学校の職員室は隣り合わせであった。校長先生は小中兼任であった。また校歌も同じで、中学生になっても改めて覚えなくてもよかった。 その当時の校歌をここに書いてみた。もし読者の中に同じ端島の方が居られたら、いっしょに口ずさんで、当時を思い出していただけるのではないだろうか。三〇年経っても歌える歌である。作詞、作曲者に関しては、資料がないので割愛させていただいた。 高島町立端島小中学校 校歌 一、高島の沖 巍峨として 動かぬ船の名をえたる 奇しき端島の島の上に 我が学び舎はそそり立つ 二、学びの窓ゆ 見はるかす 一望千里はてしなく 海を心の友として 学びの道を進むかな 三、至誠・博愛・健康の 三つの訓守りつつ みな善良の民となり 世界のために尽くしなん 戦前は「みな善良の民」が「皆忠良の民」であり、「世界のため」が「御国の為」であったという。 申し訳ないが、高島高校の校歌は記憶にないのである。
学校の昼休みは給食で始まるのだが、この島では昭和四五年(一九七〇)まで給食はなかった。その代わりに三時間目が終わると牛乳が配られ、それを飲んで昼休みまでの一時間、授業を受けるのである。その牛乳のふたを使った面子に似たゲームが一時期はやったことがあった。とくべつ価値はないのだが、それを多く集めることに夢中になった記憶がある。 昼食は弁当持参か、自宅へ帰って食べた。自宅のアパートまで距離は知れたものである。走って帰って母親がつくった昼ご飯を頬ばり、そそくさと学校に戻るのである。決められた時間の中で食べてくるのであるから、たいていは簡単な昼食であった。この時期、弁当持参の子が少しうらやましいと思った。食事を終えて、グラウンドには小学生、中学生が、それぞれの昼休みを楽しむのである。狭いグラウンドにひしめきあって遊ぶ者、教室で読書をする者、校舎の廊下で走りまわる者、さまざまな短い昼休みを過ごすのであった。 私の中学校時代の話であるが、音楽室は校舎の六階の端にあり、防音装置が施され、海を眺めながら歌っていた。しかし、だいたいの音楽の授業は昼休み後にあるため、先生のピアノの音が子守唄になったことは多分にある。 雨の日の体育の授業は六階の講堂であったのだが、ここは小中学校共用の場所であったにもかかわらず、同時に授業がなかったのが不思議だが、たぶん授業のローテーションがきちんとしてあったと思われる。またここは月曜日の朝礼や中学校のクラブ活動として使用されていた。 中学校の技術工作教室だけは一階の端にあり、いつも油くさい部屋であった。ここでさまざまな工作物を作った。かつての私の自宅の入口には、そのとき作ったポストが今でも残っている。教室には万力やノコギリ、カナヅチなどの工作道具がたくさんあり、また自転車のパンク修理の実習もやった覚えがある。 化学教室は七階の端にあり、薬品がずらりと並んだ薬くさい教室は、いろんな実験や蛙の解剖などをやった場所である。先生が若い女性であったため、生徒のいたずらが絶えない授業であったことも印象に残っている。この化学教室の隣が、この学校の屋上になっており、昼休みや休憩時間の唯一の憩いの場所であった。屋上といっても4畳半くらいのスペースの三分の一を花壇が占めるので非常に狭い屋上であった。また沖にいる船舶に手旗信号で「無事航海を祈る」などと冗談交じりで送ると、「ありがとう」と手旗信号が返ってくることもあった。手旗信号はボーイスカウトでの研修の賜物である。 七階には家庭科教室もあって、ミシンがたくさん並んでいた記憶があったが、二五年ぶりに島へ行ったとき、たしかにその場所でミシンを確認した。この島には、いまでもあちらこちらにミシンの残骸がある。多くの女性たちが裁縫をしていた姿が偲ばれる。 放課後のグラウンドは、ほとんどが中学生のクラブ活動に占領され、たぶん小学生たちは狭い屋上やアパートの廊下、建物と建物の隙間で遊んでいたのであろう。昭和四五年(一九七〇)に体育館ができて、中学生はそちらにクラブ活動を移したことで、ようやく小学生にも放課後、遊べる場所ができた。 閉山前に、学校には体育館だけでなく新しい設備ができている。給食設備とそれを運ぶエレベーター。これが島で唯一のエレベーターである。伝聞ではあるが、閉山がなければ、六五号棟にエレベーター設備が設置されたかもしれないということだ。閉山のほんの四年前に、新しい設備がつぎつぎと出来ているのに驚かされるが、その時点では、まだまだこの島には展望があったのかもしれない。
先生 小中学校の先生は、ほとんどがこの島に常駐していたから、島の生活の中に溶け込んでいた。独身の先生は寮に住んでいて、家庭がある中学校の先生は「ちどり荘」に、小学校の先生は公営住宅(一三号棟)に住んでいた。 独身の先生たちの宿舎は上風呂の近く(六号棟)にあって、夜になるとよくそこへ遊びに行っていた。遊びというより、さまざまな相談をしていた。学校の問題、進学、友達関係のことなど、いろんなことで相談に乗ってもらった。この島での先生との関係は、同じ島に住んでいるということもあって、かなり親密であったと思う。先生と生徒の間に垣根もなかった。困ったときには、まず先生に相談にいくのが常だったし、こちらから押しかけて相談に乗ってもらうという感覚であった。いまでも健在な先生たちは同窓会では引っ張りだこである。こういった先生にめぐり逢えたのも、島特有の環境が大きな要因だといえるのではないだろうか。最近のさまざまな教育現場での問題点も、この島では考えられないことである。叱られるときは徹底的に叱られ、誉められるときは本当にわが身になって喜んでくれた。先生に叱られても親は先生を責めるわけではなく、間違った本人たちをたしなめた。悩みのありそうな生徒には先生がすすんで声をかけ、放課後や夜に自分の宿舎で話を聞いた。就職や進学の相談は、まず先生とじっくり話して、最後に親とするのである。それほどに先生への信頼があった。親しみを込めてあだ名をつけて呼んでいた先生もいた。 そのなかで思い出にのこる先生は技術工作の永川先生で、あだ名で「亀ちゃん」と呼ばれていた。当時もう五十代であったとは思うのだが、この先生の授業には笑いが絶えなかった。それほど最初から最後まで笑わせてくれる先生だった。授業が始まってしばらくすると、どこからかくすくすと笑いが出てくる。いつも授業の前にトイレに行くのか、ズボンの「社会の窓」が開いている。これがたまにではないのである。それを誰が先生に伝えるのか、こそこそ話がしばらくは続くのであるが、突然先生が気づいて慌ててチャックを閉めだすと教室中大爆笑になるのだ。その先生の照れ笑いが、なんともいえず可愛かった。永川先生は技術工作だけでなく就職の担当もしていて、中学を卒業し集団就職で都会へ行く生徒の相談に親身になってくれた人でもある。まだその当時は、中学を出て働かなければならない生徒もいたのである。また生活指導の平川先生は「べちゃ」と呼ばれていた。とにかく厳しい先生であった。何度となくビンタを食らったものだ。遅刻や、中学生らしからぬ態度などすれば、即ビンタが飛んできた。今でも怖い先生だが、そのおかげで曲がったこともせずに生きてこられたのだと思う。国語の汐碇先生は「汐さん」と呼ばれ、人生の情緒的なことなど教わった。とくに恋愛問題について夜遅くまで相談に乗ってくれた。ほかにも一人ひとりの先生の特徴やお世話になったことが三〇年以上たっても鮮明に思い出されるのは、この島での先生との関係がいかに密であったかを物語るものである。それは私だけではなくここで育った生徒たちみんなに言えることではないだろうか。叱られた先生ほど記憶に残り、その先生がいちばん懐かしいものだ。今でも職員室の黒板にのこる先生の名前を見ると、懐かしさで胸がいっぱいになるのである。 病院 サッカーの練習をしていたとき、ボールを蹴りそこねて足を挫いたことがあった。そのときはなんでもないと思ったが、しばらくすると足に激痛が走った。友達には大丈夫とやせ我慢をしながら、とりあえず自宅へと帰っていった。しかし、そのときの自宅は一九号棟の九階にあったから、学校の運動場からはかなり離れた場所である。自宅までの階段が疎ましく思えるほど辛いものであった。なんとか自宅に帰りつき、母には何でもないと強がったものの次第に痛みが増してくる。横になって痛みをこらえるものの、このまま足がちぎれるのではないかと思うほどであった。ちょうど一番方で帰ってきた父が、私の様子を見てすぐに「病院に行くぞ」と言い出した。しかし足の痛みで病院までは自力では歩いていけない……そんなことを思っていると、父親は中学生の私を背負って階段を一歩一歩下りだした。この島の地獄段と呼ばれる階段を、私を背負って病院に向かって行ったのである。病院の外科に連れて行かれて、すぐにレントゲンを撮ると踵にヒビが入っているとのこと。入院はしなくていいが、すぐにギプスを巻くという。生まれて初めての経験に少し戸惑いながらも、医者の処置のままにギプスを膝まで巻きつけた。帰りも父の背中と思いきや、病院が用意してくれた松葉杖が私の帰りの足になっていた。この日は父に背負われたり、それは幼いころにはあったかもしれないが、中学生にとっては少し恥ずかしいような体験だった。またギプスや松葉杖も初めての経験で、病院の処置の手際よさに子供ながら感心してしまった。 翌日は、こんな状態では学校に行けないなと思っていたら、いつもの時間にN君とT君が私の自宅に迎えに来た。昨日の私の様子を見ていて、病院からの情報をなんらかのかたちで知って迎えに来てくれたらしい。一人がカバンを、もう一人が私のつたない松葉杖の介護にまわってくれた。この島は階段なくして目的地には辿り着けない。学校も七階建てである。中学校は五階まで上らねばならない。ギプスが取れるまでの毎日、この二人が自宅まで迎えに来てくれた。学校の登下校だけではなく、自宅に風呂のない生活だったから共同風呂にまでこの二人が付き合ってくれたのは言うまでもない。ギプスの足にビニールを巻きつけて、片足を湯船の外に出しながら入浴したり、背中を洗ってくれたりと親切にしてくれた。この二人のありがたさは今でも忘れない。これがきっかけで、ギプスが外れたあと足が速くなって五〇メートルを六秒で走ったのである。怪我の功名というのだろうか。 病院の思い出には父の入院もある。炭鉱で目に怪我をした父が入院していたころである。母に促されて父の見舞いに病院へ行ったものの、大部屋に横たわる父の顔がよく見られず顔が赤くなってきたのを思い出す。それはこの病院の暖房のせいなのか、あらたまって父と対峙する中学生の照れや気恥ずかしさだったのか、どちらかはわからない。自宅でもほとんど話さない父と、こうやって病院という特殊な場所で向かい合うと、なんとも言えない気分になるものだ。看護婦さんも近所の顔見知りの人であったし家族のような病院であった。 母の持病の喘息や私の足の怪我、父の怪我と、病院が近くにあったことはありがたかった。島であってもきちんと処置をしてくれたおかげで、私たちは今でも健康な毎日が送れている。レントゲン室も手術室も入院設備もあった。いわゆる診療所ではなく、ちゃんとした病院としての機能を持っていた。小さな島であっても都会と変わらない処置が迅速にできる病院がここにあったのである。 公民館その他の施設 いろんな意味で、公共機関として活用されたのは公民館と映画館だったろうと思う。映画館は本来の機能に加え、山神祭の後のカラオケ大会や余興の場に使われ、狭い島での集会場としての役割があった。同じように公民館も文化施設として使われていた。生け花や料理教室、カルタの実践教室、ボーイスカウトや老人会の集会など、さまざまな使われ方をしていた。また選挙の投票場でもあった。私たちも高島高校への船が欠航のときは、ここは自習する教室でもあった。一階に事務所があり二階には料理教室などの施設があったように思う。三階は畳の部屋で防音設備もあり、ほとんどの集会にはここを利用していた。 私がもっぱら利用したのはボーイスカウトの集会である。西彼五団の端島ボーイスカウト「はと班」の班長であったことで、七名くらいの隊員の世話をしていた。ときには手旗信号やモールス信号の練習など、「備えよ常に」を合言葉に、私たちは活動をしていた。今でも手旗信号が打てたり、いろんなロープの結び方ができたりと、ここで学んだことは少なからず社会に出て役立つものがあったと思っている。 公民館のそばに駐在所があったが、こことパチンコ屋だけには入ったことがない。未成年であったことと、警察に呼ばれるようなことがなかったからであるが、ただ牢屋があるのを見たことがあった。現在でも錠がかかったままで残されている。その当時、駐在所の警察官の息子とは同級生であった。しかし、彼はいっしょに中学校を卒業することなく父親の転勤で島を後にしたのだが、近年同窓会で再会したときに彼も同じ警察官になっていたのには驚かされた。本人には失礼だが、とても警察官になるような感じではなかったものだから。 島のパチンコ屋には一度も行ったことがなく残念に思っているが、いま私のところに当時のパチンコ玉が一個あるのである。ある人からいただいたものであるが、玉の真ん中に、端と書いてある。 そのほかの施設として食堂があった。一八号棟の下に「厚生食堂」と、一七号棟の下に「宝来亭」があり、私の母は少しだけ宝来亭に勤めていた。母はあまり詳しい話をしたがらないが、私の記憶にあまり残っていないことから、たぶんそんなに長く勤めてはいなかったはずである。どちらも、チャンポンやうどんなどの中華料理に近いものをつくっていた。なかでも厚生食堂のうどんは思い出の味である。素うどんだったが、私のうどんの味はここから始まった。都会に出たときに食べたうどんのスープは醤油味で透き通っていなかった。そんなとき私はいつも厚生食堂の透き通ったスープを思い出したものである。今でもうどんのスープは透き通ってないと食べる気がしない。運動会や、遠足のときも、ここで弁当を頼んで作ってもらっていた。棟の廊下にあった島内電話で、出前の注文ができたのも便利であった。 電話といえば、私たちの場合、郵便局で外線取次ぎの手配をしてもらって、島外の電話につないでもらっていた。郵便局は三一号棟の一階にあった。当時は一部の職員アパートを除いて自宅に電話などなく、一般の人たちは電話をかけるために、午後八時を過ぎると電話代が安くなるため郵便局に列をつくったほどである。しかしアパートの廊下からかける電話は、島内と高島まではタダでつながっていたような気がする。確証はないのだが。 また、この三一号棟には床屋もあった。しかし私はここを利用したことはなく、もっぱら六五号棟の地下にある床屋を利用していた。風呂もそうだが、自分の住んでいるアパートの近くの施設を使うことが多かった。狭くても自分のテリトリーの中で用事を済ませようという人間の心理があったのかもしれない。 床屋には苦い思い出がある。小学校までは髪型は自由であったのだが、中学に入ったとたん、ただ四階から五階に上がっただけなのに、男子はすべて丸刈りの校則があったのである。校則だから仕方がないにしても、今まで自由に伸ばしていた髪を、バリカンで短く刈るのである。中学の入学の日まで友人同士で、いかにかっこいい丸坊主にするか、何枚刈りがいいのか、真剣に話したものであるが、いざ丸坊主になるとみんな同じで、床屋に行く決心の辛さが馬鹿馬鹿しかったことが、今では笑い種になっている。 酒屋は「鐘ヶ江酒店」と「ウミノ酒店」があり、父が酒好きであったことから大変お世話になっていた。当時は「かくうち」と称して、父は仕事帰りに酒屋の店先で枡酒やコップ酒を計り売りで飲んで帰ってくることもった。誰かから「お宅のお父さん、五十段の下で酔いつぶれている」と連絡があったりすると、私が父を迎えに行って、何人かに手伝ってもらって、苦労しながら長い五十段を引きずり上げたこともあった。「五十段」は通称であるが、五六号棟と六五号との連絡通路の端に、階下まで下っていく剥き出しの階段で、その先がビー玉場やマーケットにつながっている階段である。五〇の段差があったからつけられた通称である。もうひとつ有名な階段として地獄段(日給アパートの階下から神社まで行くいちばん近い連絡階段の通称で、かなり勾配があった)があった。 父は平成一六年に七〇歳で他界したが、当時は酒を飲んで仕事や生活の鬱憤を晴らしていたのかもしれない。そんな思いで飲みながら、五〇段を前に疲れ果てたのだろう。いま私がその当時の父より年齢が上になってみて、少し気持ちがわかるような気がする。 また野母商店には外線用の電話があって、その電話をまるで自宅の電話のように使っていた人も多くいた。まずAさんが島外の知り合いや親戚に野母商店の電話を教えておいて、そこに電話をかけてもらう。その電話の伝言を野母商店は近所の人に伝えると、いつの間にか本人のAさん宅に、伝言が回っていくという仕組みだ。そして連絡を受けたAさんが野母商店に赴いて、そこから知り合いに電話をかけ直すことになるのだ。もちろん電話料金はタダではないが、貴重な電話を伝言によって多くの人が利用できたというわけだ。狭いけど家族のような島であったとつくづく思うのである。
夜の島 不夜城と呼ぶのがふさわしいくらいに、夜の島からは灯が消えることはなかった。二四時間操業だから炭鉱施設は休むこともなく働き続ける。そこに働く人と送り出す家の灯があった。派手さはないが裸電球は温もりのある灯である。一番方の酒席が最高潮になるころ、二番方の帰ってきた家の灯が賑やかになってくる。三番方を送り出す灯の頃に一番方が眠りに入る。そして二番方の家の灯が消える頃に、一番方を送り出す灯がともりはじめるのだ。絶え間なく灯はついていく。この一つひとつに家庭があり家族がいるのだった。島から出かけて夜に帰ってくると、島のあちらこちらから漏れる灯に、ほっとするような安心感があって、船が桟橋に近づくにつれて、こんどは人々の声が漏れ聞こえてくるような気がしていた。 私たち子供もけっこう遅くまで友達の家で遊び、夜中に帰ってもほとんど叱られることもなかった。夜中に帰っても、鍵をかけることはなかったから入り口をたたいて寝ている家族を起こす必要もなかったのである。行き先だけを言っておけば、親は安心していたのだろう。狭い島だから、探すほどでもないと考えていたのかもしれない。友達の家の家族も帰れとは言わず、子供たちの自主性に任せていたようであった。テレビゲームもない時代だから、もっぱらレコードを聞いたり、それに合わせて歌ったり、屋上に出て取り留めのない話をしていた。ただ父親の勤務状態だけには気をつけて、子供なりに今日は早めに帰ろうとか、静かに遊ぼうとか、暗黙の了解があった。どこも狭い間取りだったが、子供が遊ぶときには一部屋を占有させてくれたのも、ありがたい親たちの配慮であったと思う。昼間は学校で、夜は誰かの家で楽しく育った時代である。 当時、高島から夜の端島を見たことはあったが、住宅がある西側正面からの島全体は、船上からでしか見ることはできなかったために、私はその位置から一度も夜の島を見ることはできなかった。さぞ明るく活気に満ちて、一軒一軒の窓の灯から話し声までが聞こえてくるほどであったろうと想像できるのである。野母崎方面から見る島とは、まったく違う表情を見せていたことだろう。 現在は閉山後に立てられた灯台の明かりがあるだけである。夜になれば灯台の明かりだけで島の姿は夜の闇に消えている。当時は灯台の役目までしていたこの島の灯が、すべて消えて三〇年近く経ってしまったが、ここをライトアップしようという計画があったらしい。しかし私たちが求めている灯は、ライトアップの、見せるためだけの灯ではなく、家族や家庭がともすほのかな裸電球のやさしい灯である。しかし、それを求めることはもう無理なことであることは誰もが知っている。あの灯を取り戻すことができなくとも、われわれの心の中には、あの島の灯は思い出として残っている。灯が消えても、この島が果たしてきた日本近代化への役割や、多くの人たちが暮らしていた歴史の一ページは、社会から消さないでほしいと願うのである。
スポーツ カーブの話がある。 高島でスポーツ大会があると、グラウンド競技でカーブになると端島の人たちはスピードの勢いが増すといわれていた。 なぜか? 端島のグラウンドでは直線で一〇〇メートルを確保することはできない。運動会でグラウンドにコースを書いても、直線コースはほとんどないことになる。当然、走り出したらすぐにカーブ、直線かと思いきやまたすぐカーブに差し掛かる。そんな走行をしていれば、徒競走になればカーブに強くなるというわけだ。生活の中でも、狭い空間で常に障害物に当たるわけだから、反射神経はよかったのかもしれない。 この島ではスポーツがほんとうに盛んであった。閉山の二年ほど前に体育館ができたのであるが、私はその体育館を一度も使うことなく、スポーツクラブはグラウンドが主な場所だった。バスケットやバレーボールなどを、六〇メートル四方の狭いグラウンドでひしめきながらやっていたものである。テニスは病院の前にコートがあり恵まれていたのだが、バスケットやバレーボールは自分たちでコートの整備をし、石ころなどを取り除いて練習を始めるのが日課であった。また、サッカーはそのころ野球についで人気のあるスポーツで、島でも盛んだったが、こればかりは放課後に狭いグラウンドではできず、日曜日などの休みに集まってやったものである。しかし正式なサッカークラブというものではなく、誰かがボールを持ち出して蹴り始めると、アパートの窓から覗いていた者が下りてきて次第に人が増えて、いつの間にかチームに分かれて試合が始まる。そんな自然発生的なサッカーが始まるのである。ゴールポストはなかったので、鉄棒の隙間をゴールとして試合をした。キーパーがボールを捕球するときに勢い余って鉄棒の柱に頭をぶつけるのはいつものことであった。 隣の高島には、ちゃんとゴールがありコートにも線が引いてありうらやましく思っていたが、練習試合に行ったとき、端島の生徒が高島に対して俄然闘志を燃やすのは、たぶんこういった環境の違いに対するコンプレックスだったのではないだろうか。それは今でも端島の人の中に残っているようである。昨年だったが、端島のある長老と高島に用事で一緒に行ったときのことであるが、高島に近づいたときに、その長老が「高島は、あの頃は人も多かったし、設備も端島より良かったけど、運動だけは高島に負けたくなかった」と言い、同時に聞きとれないくらいの声で「高島と端島は、他のことでも、よう喧嘩しよったよ」と……スポーツだけでなく大人たちの世界にも隣の島とのライバル意識があったのだと初めて知った。 端島の子供たちは、そこにあるものを違った形で利用する知恵に長けていたと思う。例えば夏場以外のプールを利用して野球ゲームをしたり、狭い島で限られた場所をうまく利用するのに慣れていた。雨の日には七階建ての校舎の廊下と階段をフル活用しての廊下ダッシュ、階段駆け上がりなど、校舎が木造でなかったことが幸いして利用できたのである。通常は廊下を走ることは厳禁であったが、クラブ活動であれば廊下を走ることは黙認された。またスポーツとは違うかもしれないが、ビー玉場とよぶ変則の三角スペースが五六号棟と五七号棟の真ん中にあった。広さはおよそ二〇坪くらいの場所である。ここでは実際にビー玉もしていたが、グラウンドを使うほどでもない遊びの、大きい子、小さな子たちの共通の遊び場だった。 秋の運動会は、小学生と中学生が同時に開催されるので、狭い中でのうっぷんを晴らすように島を挙げての祭典となるのである。四月の山神祭りもそうだが、端島の人たちは祭りやスポーツ大会などには全島あげて参加する。運動場には所狭しと人が集まってくる。いちばん人気があったのは、やはり地区対抗リレーである。島の中を子供会の単位でいくつかの区域に分けて競争するのだ。記憶は定かではないのだが、各アパートの号数や、六五号棟はマンモス棟だったから階別に区域が分かれていた。その中から運動会の前に学年別に選手を選んでこの運動会に望むのである。選考はその子供会の世話役の大人がおこなうのであるが、実際に走らせて選んだり、あいつは速そうだと噂で決めたり、さまざまであった。選ばれた者たちは、その地区の代表であるから運動会まで何度も練習する。私も中学二年の時に選ばれて三人抜きを演じたことがあった。本番での応援は島中に響き渡るほどである。小学生から中学生にバトンが渡り、クライマックスは中学三年生のアンカーである。運動会も最高潮に盛り上がり、グラウンドに飛び出さんばかりの人たちが「走れ!、追い抜け~」とあらんかぎりの声援を送る。走っているときは無我夢中だが、その歓声の中を走っている自分に誇りと嬉しさがこみ上げてくるのである。 3 島の四季 春――山神祭 山神(山の神である大山祗神を鉱山の守護神としていた)。今でもアルバムなどに残っているが、山神祭の賑やかさは運動会以上である。朝早くから笛や太鼓の音が聞こえはじめ、御輿が神社から下ってくる。私たちボーイスカウトで、その警護に当たる。御輿を守っているのだという自負の中で機敏に動いていく。子供の御輿もあったから、怪我をしないように仲間と協力し合う。島の幹線道路を掛け声とともに回っていく。広場では奉納踊りやさまざまな演し物があでやかに披露される。長崎市にある諏訪神社の「おくんち」のミニ判である。そして夕方になると昭和館(映画館)では長崎市内からやってきたバンドが演奏をしたり、カラオケで歌ったり、島の人たちがこぞって楽しむ場所となる。昭和館は映画館の機能と、こうした祭事に島の人々が集う場所でもあった。 映画も当時七〇円くらいで、東映の任侠ものや時代劇を上映していた記憶がある。もちろん石原裕次郎など、当時の若者向けの映画も上映されていたことはいうまでもない。ただ閉山間際には、映画館の機能はなく卓球場として使われていたのを覚えている。 夏――海水浴と台風と花火 海に囲まれた島であっても砂浜の海水浴場がなかったので、対岸の野母崎町の高浜海水浴場に子ども会でいくのが慣わしであった。朝顔丸に乗船し、対岸の高浜を目指す。子供心にわくわく気分である。朝顔丸のような大きな船は直接海岸に接岸できないため、少し離れたところで小船に乗り換える。 端島の子供たちにとって、砂浜の海岸はあこがれである。波の高低に身体を任せる。唯一至福の時間である。島のプールでは味わえない海の豊かさがここにはあるのである。ひと泳ぎした後の西瓜割りなど、レクリエーションは大人が段取りをして子供を飽きさせないような配慮がされていた。ここから見える端島は、ゆうゆうとした姿で、私たちを見守ってくれているように感じた。今でもこの高浜から見る端島の姿は、そんな気分にさせてくれる。 台風 あれは中学二年生のときだったと思う。台風何号だったかは定かではないが、普通の台風では島の人たちはそれほど騒ぐこともなく、年中行事の一つだと思っているような感覚があった。たしかにそれまでの台風で多くの場所が被害を受けたが、それでひるむような人たちではなかった。私も普通の台風のときには、岸壁で大波を眺めるのが好きであった。呑み込まれそうな大波の、寄せては返すそれを見るのが好きだった。しかし、夜になるとそうもいかず自宅でじっとしていると波の衝撃で建物が揺れたりすることもあった。九階に住んでいながら波しぶきがベランダまで上がってくるのである。 そのときも台風をやり過ごすため自宅にいたが、退屈になって友達のいる五一号棟に雨に濡れながら遊びに行っていた。夜の九時前後だっただろうか、いままで聞いたこともない大きな音がアパート中に響いた。皆がアパートの外に飛び出したとき、アパートの下のほうに見慣れたものが落下していた。なんと端島神社の屋根であった。台風で屋根が日給社宅(一六~二〇号棟)と五一号棟の間に吹き飛ばされてきたのである。下は端島銀座といわれた、いつもは人の通りが絶えないところである。台風で誰もいなかったことが幸いして犠牲者は出なかった。その数分後に風がぴたりと止んだとき、「台風の目」に入ったことを近所の大人に教えられた。 台風で吹き飛んだ端島神社の屋根だったが、三十数年たって、ふたたび本殿の屋根はなくなったものの神殿の屋根はしっかりと今でも残っている。遠くからでも四本のコンクリートの足がこの神殿を支えてくれているのがよくわかる。 花火 台風の合間を縫いながら、お盆の夏祭りが開催される。 場所はいつものように学校の運動場である。中央に櫓ができて盆踊りが始まる。都会へ行っていた女性たちが帰省して浴衣姿で集まってくる。そんな姿がまぶしく見えた。祭りの最後は打ち上げ花火だ。すべての電気が消された後に、中ノ島(高島と端島の真ん中にある無人島、当時は火葬場として使われていた)から花火が上がる。ド~ンという音の後に、きらめく花火の華やかさと、間近で見上げる迫力に圧倒されるのである。 つぎつぎに上がる花火の後に花火の燃えカスが頭に落ちてくる。それほど近いところでの花火の打ち上げであった。花火のすばらしさもそうであったが、花火の一瞬の光の下に見える島の人たちの顔は、なんともいえず幸福そうだった。夏の終わりであった。 秋――文化祭 この島の人たちの文化的な素養は半端なものではない。絵画、写真、書道などプロ顔負けの達人が揃っていた。端島のさまざまな生活の写真を撮った伊藤千行さん、書道家では原さんという有名な人がいた。また絵画においては、私も中学のときに油絵を指導していただいた、現在の長崎端島会会長の多田さんがいる。伊藤さん、原さんはすでに他界されたが、多田さんは今でも精力的に活動しており、先日も展示会の案内をいただいた。多田さんも端島を多く描かれたそうだが、描くたびに知り合いから欲しいといわれ、手もとには一枚も残らないそうである。 端島では「かるた」いわゆる百人一首の競技も盛んだった。私も何度か公民館でおこなわれる練習に参加したことがあるが、相手が小学生であったにもかかわらず完敗だった無念の記憶が残っている。それから百人一首の勉強をしてみたが、才能がなかったのだろう、いまだに花は開いていない。ただひとつ、これだけはと思う取り札がある。「おおえやま いくのの みちの とおければ まだふみもみず あまの はしだて」この一首だけは今でも出てくる。この一首だけでも生涯に残るものとして、そのときの思い出にしたいと思っている。 冬――静かに波をながめて 二月くらいまでは北風が強く、ただ荒れ狂う海を見ながらすごす毎日。この季節は船の欠航も多く、静かな島であった。市場の行商のおばさんたちも対岸の高浜から渡って来れない。欠航すれば生鮮食料品も少なくなってくる。冬の海の厳しさである。そんな中で一度だけ雪が積もった。中学一年のことだろうか、記憶は曖昧であるが、校庭で雪だるまをつくった記憶がある。海のそばには雪は積もらないといわれていたが、このときはかなりの寒波が襲来したのであろう。私が島で雪を見たのは、このときが最初で最後であった。厳しい冬のひと時の安らぎであった。 そんな中でも、この島は二四時間働いていた。季節が変わろうとも働き続けた島である。海の底では父親たちが炭を掘り出し、石炭を運ぶベルトコンベアーは常に稼動していた。今そんな島の騒音はどうでしたかと質問を受けることがあるが、あのころ常に聞こえていた音が今は思い出せないのである。なぜか――それがあまりにも生活の一部となっていたからだろうと思う。まるで心臓の音のように……。 いまは音がしなくなった島であるが、私たちの思い出をしっかりと残して静かに眠っているのだろうと思っている……端島は死んではいないのだ。 4 永遠の故郷 同窓会 平成一一年の秋、二五年ぶりに端島中学校の同窓会を長崎で開いた。準備に約半年を要した。二五年前に別れた同級生の現在の居場所を探すのに、その大半の時間を費やした。きっかけは、前年に開いた長崎在住の同窓生だけの少人数の集まりの中で、「そろそろ俺たちも四五才になるから、一度、二五年前に別れた同級生を集めて同窓会をしてみたかねー」という言葉であった。そのひと言が、消えていた時間を取り戻そうというきっかけになったのである。 それからは長崎の仲間で同級生の消息を探し出すことになった。同級生の親の消息を調べるのがいちばん早道と、端島会(端島で働いていた人たちの集まり)の名簿を借り、一軒一軒電話をしたり、同級生の兄弟の消息から同級生を探し出す努力をしていった。一人が見つかれば、そこからまた別の同窓生の消息がわかってくる、そのような方法で探し出していったのである。 しかし二五年という歳月は、人を探し出すには容易でなかった。春に始めた活動も、何度かの会合の中で名簿を更新していったが、当時九〇名近くの同級生がいたにもかかわらず、まだ、三〇名足らずの人数しか把握できていない。焦る気持ちで探しつづけた。そして八月の末には、なんとか七〇名近くの名簿をつくりあげていた。把握できた同級生に同窓会の案内状を出しながら、懐かしさから声を聞きたくなり、電話の向こうの同級生とつい長話になってしまうのである。そういったことを繰り返しながら、最終的に四五名の同級生が二五年ぶりに長崎の地に集まった。 同窓会の会場では、懐かしい顔が一人また一人と現れるたびに、大きな歓声とともに、あだ名で呼びかけたり、「本当に○○さん?」などといぶかしげに互いの顔を確認したり、「変わってないな~」と二五年前のエピソードを話し始めたり、いつしかみんな中学生の顔に戻っていった。小学校のときの先生も招き、二五年ぶりの同窓会が始まったのである。 閉山式からほんの四カ月ほどで、全国に散らばっていった多くの仲間の中から、ようやく探しあてた旧友と二五年ぶりに再会できたのである。もう話題はすべて島のことである。みんな中学生に戻り、あれこれとその当時を思い出しながら話が尽きない。同窓会が終われば、また現実の生活に引き戻されていくことは承知のうえで、今夜だけは幼い日のあのときに戻っていた。 突然の別れから二五年……、帰るべき故郷が、いまは誰も立ち入れない島になっている。しかし、ここに集まった同級生は、この島を故郷と思い、いつまでも忘れないと心に誓っていただろう。この同窓会をきっかけに、各地で少人数の同窓会が始まった。もう逢えないと思っていた旧友と再会できたことで、遠い記憶がふたたび戻ってきたのだ。こういった同窓会は端島の各学年の間でも同じようにおこなわれている。八〇歳から閉山時の小学生の時代まで、端島に住んでいた者同士が集まっているのである。いつか学年を超えた大きな端島同窓会ができたらと思っている。 学校とは別に「端島会」という大きな同窓会がある。これは端島で閉山まで働いた人々の大きな同窓会である。昨年、端島会の三〇周年の集まりに出席した。今後おおきな集まりは、高齢のためにできなくなるだろうという。 会の運営の一部を「軍艦島を世界遺産にする会」のメンバーで手伝った。私も端島会の一人であるから、できるだけ手伝いたいと思ったのだ。受付や当時の写真展示など、遠くからくる人たちの思い出を、ひとつでも多くつくりたいと願ったのである。当日の受付は、懐かしい顔が一人また一人と現れるたびに歓声が起こり混乱する。受付をしている人もだが、端島の人ばかりだから懐かしい人に出会うとそこで話が弾み、受付がスムーズに流れなくなる。その表情をみて、この人たちは何十年たっても何か大きな縁でつながれているのだなと確信した。私も懐かしい同級生の両親と会うことができたりして、涙が出るほどうれしかったのである。 この会でアンケートを取らせてもらい、今後の参考にさせていただいた。 二〇〇名のうち約半数の人に端島保存についてのアンケートをとった。約八〇%近くの人から、何らかの形で保存できたらよいとの回答をいただいた。しかし中には、もう壊れた端島を見たくない、元の岩礁に戻るまで、そっとしておいて欲しいとの意見もあった。 この端島のことを知っている人たちから、さまざまなエピソードを聞き記すことは、今後の端島の歴史を考察するうえで貴重なものとなるだろう。最近も二人に昔話を聞いたところ、私たちも知らなかった多くの端島の出来事を知ることができた。これからも多くの端島の人たちの聞き取りをしながら、端島の検証をしていきたいと思っている。また今後、われわれ同級生レベルだけではなく元島民の縦のつながりをきちんとしていきながら、高齢になった彼らの意思をつないでいきたいと思う。そうすることによって端島の同窓会は、次の時代へと引き継がれていくものと思っている。 端島への思い 端島は上陸禁止であったことが幸いして、島の町並みが閉山当時のまま残され、歴史と暮らしを物語る貴重なたたずまいをそのまま残している。炭鉱跡や町並みが完全に近い形で残された例は、わが国にはほとんどない。 端島の建物には、迷宮のような面白さがある。初めて訪れた人は、島を巡っているうちに、自分がどの高さ(何階)にいるのかわからなくなるという。建物は最初からきちんと設計されて造られたものではない。空いたスペースに、つぎつぎと建物を建てていったようである。この狭い空間に、よくもこれだけの建物を建てたものだと感心させられる。 そういった状況でも私たちが生活できたということは、慣れればそれが当たり前と思うように、環境に順応していったのかもしれない。ちょっと大きな服や靴でも、最初は違和感があっても、いつの間にか当たり前のように着こなしているのとよく似ている。環境に合わせられるのは人間の知恵なのかもしれない。私はこの島での生活がちょうど青春時代であり、思い出はたくさんある。プライバシーにはほど遠いような近所付き合い。島に住んでいるという感覚が麻痺してしまうような日々の生活。店があり、病院、映画館もあり、パチンコもあり食堂もある……。特別生活に困ることはなかった。ただ時化が続いた日のラーメン生活ぐらいだろうか……。学校も七階建てという、当時はかなりインパクトのある建物ではなかっただろうか。 島の平坦な部分は炭鉱のための施設であり、残りの空間に住居がある。限られたスペースに人を住まわせるという技術は、並大抵のものではなかったと思う。外側から見ると、なんとも窒息しそうな感じだが、意外と中の通路はきちんと整備されていたし、人が往来するには十分であった。島には病院もありお産婆さんもいて、お寺もあるということで、生まれてから死ぬまでの設備が整っていたのである。 一時期、「緑なき島」とメディアでは言われたが、これは外部の人たちの端島への見方がそう思わせたのだと思う。むしろ緑の多い島であったような気がする。外部から端島を「緑なき島」と表現するのは簡単だろうが、島の内部では、島おこし、町づくりが多くの島民の知恵でなされていた。 この島を日本の近代化を支えた産業遺構として、何とか保存できないものかという思いから、私は「軍艦島を世界遺産にする会」を立ちあげた。はじめは周りから、なんて馬鹿なことを始めたんだろうとか、そんなことできるわけがないとか、さまざまな声が聞こえてきた。たぶん今でもそう思っている人もいるのだろうが、世界遺産――壮大な夢である。夢の一歩は、常に周りの理解は得られないものかもしれない。しかし、だからといって諦めていては夢はただの空想でしかないのである。 私はこの会を設立して、人と人との「縁」を深く感じた。いま多くの人がこの運動に賛同し、活動しているが、一人ひとりとある縁でつながり、メールで、電話で、そして会って話して理解を深めることが、どんなに素晴らしことかを知ることができた。 いま私は、この人と会いたいと思うときには、できるだけ迅速に会うように心がけている。それが夢を一歩でも進めるための「縁」をつなげていくものだと信じている。さまざまな知恵を出すことで、一人では不可能な専門的なことなど、たくさんの「縁」が一つひとつ解決してくれる。知恵を「縁」というつながりで出し合うことで、今後のわれわれが向かおうとしている道が見えてくるかもしれない。「北海道と並ぶ旧産炭地である九州に残った炭鉱遺構を生かすことは『誇れる地域の遺産』としての視点が生まれるということだ」という新聞記事があった。端島の保存は、放置されたままの日本の産業遺構にも光を当てることになるし、地域おこしの起爆剤にもなると考えている。
端島の崩壊を食い止めることは容易ではないが、「地域の財産」として、皆さんの「縁」となる知恵を貸していただきたい。端島などの産業遺産を、どういう認識で評価し定義するかはさまざまであろうが、それらの遺産は、いま「現在」を作り上げてきた貴重な存在であることはまぎれもない事実である。歴史の中に登場しない名もない人々がつくりあげてきた産業遺産を、ただ無用の物として目をそむけるのか、それとも「未来」に向き合って活用するのか、いまわれわれは問われている。 産業遺産とは、われわれにとって何なのか? 博物館にあるものだけが遺産なのか? 産業遺産はただの廃墟なのか、それともわれわれの財産なのか? それを導きだすには多くの時間と考察が必要であろ。しかし、その近代の歴史を後世に継承していくのは、いまに生きるわれわれのほかに誰もいないことも事実である。 三十数年前の自分が住んでいた時のことを、思い出しながら端島のことを書いてきたが、うろ覚えのことや、聞き取りの間違いや書き足らない箇所などがあるかもしれない。残された資料の中で、自分なりに記憶と一致させながら書いた。ここに書かれたことがすべてではなく、島に住んでいた一人ひとりに、さまざまな物語があったことをご了承いただきたい。 終章 廃墟 いま廃墟の主役として、この軍艦島(端島)が出てくる。廃墟ブームというものがあるのか無いのかわからないが、「廃墟」という言葉には抵抗がある。昨今マスコミで取り上げられることの多いこの島のキャッチフレーズは「廃墟の島」、「墓標」……暗いイメージの言葉が大半を占めている。しかしそこに暮らしていた人間にとって、いくら崩壊寸前であろうとも、やはりそこは紛れもない「故郷」なのである。それを軍艦島イコール「廃墟」では悲しすぎる。たしかにそのようなことでこの島がクローズアップされることになったが、自分が住んでいた場所(故郷)が廃墟と呼ばれたら、端島にかぎらず、誰しも不快感を持つに違いない。島が無人になって三〇年の間に、心無い人たちによる落書きや破損に、この島は嘆いている。台風などで自然崩壊していくのはしかたないにしても、人間による破壊は断じて許しがたい。 各地に残る「廃墟」と呼ばれる場所も、過去には人々が生活をし、社会に何らかの影響を与えてきた場所であると思う。なぜそこに存在しなければならなかったのか? なぜ廃墟になっていったのか? 考察をしていけば、そこに存在した価値が見えてくるのではないだろうか。 無人島になって三十年余りもそのままの姿であり続ける島には、過去の日本を支えてきたダイナミックなエネルギーの痕跡と、そこに暮らした人々の生活環境が残されている。世界にも類がない産業遺構である。それは日本近代化の流れを知るうえで貴重な資料となるだろう。これらのものを通して、現代のさまざまな分野に問題提起できないだろうか。単なる廃墟や観光の見世物としてではなく、真の「軍艦島」に新たな視点を築いてほしいと思う。 端島と軍艦島 端島に住んでいた私たちにとって、この島は「軍艦島」ではない。私はいま「軍艦島を世界遺産にする会」を主宰しているが、これはあくまでも外側からこの島を見たときの表現である。外側と内側という表現は難しいのだが、感覚的にとらえていただけたらと思う。軍艦島とは外側から見たときの島影が軍艦に似ていることから付けられたニックネームである。しかしこの島の内部は、あくまでも「端島」なのである。住んでいた人々にとっては、いつまでも端島であり、軍艦島ではないのである。 私は、「軍艦島」はあくまでも外側からの視点、例えば環境工学、建築学、産業経済史など、さまざまな学術的な見方であると思っている。その中に生活の実体として「端島」というものが存在する。端島の過去の生活やコミュニティ、建物が、総合的に軍艦島として考えられたときに産業遺産としての価値が生まれてくるものと考える。 しかし元島民にとっては、外側からこの島を軍艦島と捉えるのはかなり難しい。特異な生活であったにしろ、そこは日常の生活を営んだ場所なのである。三〇号棟の歴史的な価値は知らなくても生活には何ら支障はなく、高層アパートでの暮らしも、その場所しか住む場所がなかったからだ。そういった意味において、端島の島民は、他の場所に住んでいる人たちとなんら変わらない、そこの住民でしかなかったのだ。 先日、ある女性から電話をいただき、端島に昭和三九年(一九六四)まで住んでいたことを告げられた。自分が持っている端島の古い写真を送りたいとのことだった。数日して写真といっしょに一枚の手紙が届いた。文面には「端島」という文字が何度も書かれていたが、最後まで「軍艦島」という文字は書かれていなかった。これはこの女性だけではなく、端島に住んでいた人たちに共通した文章である。ま会話にも「軍艦島」という言葉は、ほとんど出てこない。私の妻も端島で生まれ育った一人であるが、会話の中では、やはり「端島」である。同級生との会話の中でも同じことがいえる。端島の人々はあくまでも「端島」の人なのであって、けっして「軍艦島」の人ではないのである。 軍艦島を考えることは、それはこの島の外部からの洞察であり検証である。「軍艦島を世界遺産に」という思いは、内側、外側の視点をも考えてのことである。「端島」として眺めたときには気づかなかったものが、また逆に「軍艦島」として眺めたときには見えなかったものが見えてくるのである。そこにで築き上げられた歴史を、外と内から照らし合わせることにより、よりいっそうこの島の魅力が出てくるのではないだろうか。「端島」だけで終ってしまうよりも、「軍艦島」として包括した検証をしていきながら、元島民の「端島」をいい形で保存できたらと思っている。 海の道(青空博物研修圏) 私が「海の道」という言葉を知ったのは、いまから三年ほど前である。現在、九州大学の名誉教授である森祐行氏の新聞掲載記事だった。ここに森教授のご了解を得て雑誌「海路」に掲載された論文の一部を引用させていただいた。長崎の今後の展望を考えるときに「海」はなくてはならないものである。そういう意味で、たいへん貴重な考え方だと思ったからである。 青空博物館 長崎県には石炭を掘り出した島々がある。島には、我が国の歴史において重要な役割を果 した石炭産業の遺跡がある。先人の残したものを活かすのか。殺すのか。今、私たちの英知 が問われている。豊かな自然と産業遺跡を未来に活かすことは私達の責務である。 青い海と青い空の中に白い軍艦島(端島)が浮かんでいる。ローマの遺跡や吉野ヶ里遺跡 のように、炭鉱の遺跡も青空の下、その地にあってこそ、その価値が現れる。人々は、その 地に立ってこそ、その遺跡を実感できる。 人は具体的な物を見て、触って、話しを聞いて、その物の価値や背景を実感できる。博物 館といえば立派な建物の中に高価な物品が陳列されている場景が浮かんでくるが、その必要 はない。品物を前にして、その品物について語りかける人がいて、その話しを聞く人がいる。 そこが博物館である。誰にでも思い出の品はある。その品はその人にとっての宝である。金 銭には代えられない宝である。 昔、語り部という人々がいた。ある物を前にして人と人が語り合えば、互いに何かを感じ 合うことができる。 長崎県の海に点在する炭鉱遺跡の島々、すなわち、端島(軍艦島)、高島、香焼島、伊王 島、池島、松島、蛎ノ浦島(崎戸町)、大島を、それぞれ一つひとつの博物館とし、これら の島々を結ぶ「海の路」を整備することによって、博物圏を形成することができる。船は高 速である必要はない。安全な船であればよい。豪華なホテルも必要ない。要は、豊かな自然 と海の幸、野の幸に囲まれて、人と人との触れ合いをつくることである。島から島へと続く 「海の路」は四季折々に色々な風情をかもし出すに違いない。船の中では車中とは違った人 と人との触れ合いや価値観が得られるに違いない。 閉山を迎えた池島炭鉱と太平洋炭鉱は、国の政策として外国の技術者が炭鉱技術を学ぶた めに坑口を閉鎖することなく、技術研修のために坑内作業が継続されている。この事は我が 国の石炭産業の歴史において画期的なことである ここに残る人的、物的財産を現在に活かすことは十分に可能なことである。 今こそ未来のために、「海の路」で結んだ「青空博物研修圏」を創ろう。 (『海路』創刊号) 森教授のこの「青空博物研修圏」には、これからの長崎の観光のあり方や、産業遺産のとらえ方がよく読み取れるのである。物を箱の中に押し込むのではなく、そこにあってこそ、そのものが生きた博物館になれるという構想は、今後の博物館のあり方にも問題提起できるものだと思う。また平成一六年(二〇〇四)五月に、軍艦島クルーズガイドの養成講座が開かれ、現在四〇名近くの認定ガイドの人たちが今後の活躍の場を待っている。 この軍艦島認定ガイドは、長崎で港を離れた海のガイドとして初めての試みである。港長崎は海から新しい文化が入ってきた場所である。いま一度、海からの文化を再認識できるような「海の道」をつくりあげるために、「軍艦島」をメインとしながら、点在する島々の海のガイドとして活躍できるようにしたいと思っている。また、さまざまな人たちの研修の場として「海の道」をつくっていくことが、いままでにない観光の新しい発見につながると信じたいし、観光で訪れた人たちに長崎の海の魅力を知ってもらい、遠いむかしに海からやって来た文化やロマンにも触れて欲しい。それを導き出すのは、この軍艦島クルーズのガイドだろう。いまは「軍艦島」がメインであっても、今後「海の道」が整備されることによって、いままで語られなかった島々の文化や遺産に光が当たると思うのである。 参考文献 阿久井喜孝『軍艦島実測調査資料集』(東京電機大学出版部 1984) 軍艦を世界遺産にする会『失われたときを求めて』(2004) 森祐行「青空博物館」『海路』創刊号(石風社 2004) 六十五号棟 自宅間取り
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