端島(軍艦島)を遺跡としての保存に関する提起書
(日本における炭鉱遺構の保存を考える)
趣 旨
平成13年11月21日、長崎県西彼杵郡高島町端島(以下端島)が、それまでの所有者であった三菱マテリアル株式会社(元三菱鉱業)から正式に高島町へ移譲された。 しかしながら、その高島町も昨今の市町村合併の波に洗われ、長崎市へ合併されることが決定的となったのである。このことは端島という存在が、長崎市と言う一つの大きな自治体へとその管理権が移ることを意味する。 長崎市の“土地の一部”となる端島へ目が向けられることは必至であり、現段階では財政に利益を生まない端島の土地としての“放棄”が現実のものと具現化しつつあるのか不透明である。 しかし端島は長崎市にとって経済的に利益を生まない存在となるであろうか。 その歴史的価値は近代日本史において極めて重要な価値を保持しているものと考えてやまない。 世界各地に散在する歴史的建造物・或いは史跡、これらは皆、経済学的には何の意味もなさずむしろそれを抱える国家または局地的な自治体の負担となっている事実は否定できないことは事実である。 しかし端島の歴史を繙(ひもと)くとき、それは明治維新より始まる日本国(大日本帝国と言うべきか)の近代化への語り部として、これ以上はない教材を、現代生を受けている我々に語りかけている存在として非常に貴重な存在として保存すべきと考える。 たかが、一廃墟をと考えられる御仁もおられると思うので、以下にその趣旨を述べる次第である。
端島の持つ価値
1. 端島は大日本帝国より残された近代化政策を究極の形で今に残している
日本に近代化は事実上1868年より始まり、その間国家のエネルギー政策は専ら石炭と鉄鋼であった。 特に石炭は国内で得られる唯一の資源として重要視されその開発はまさに国を挙げて取り組まれてきた。
その中で端島は既に明治年間より当時の筑豊と並ぶ石炭増産を義務づけられ、極めて過酷な労働条件の下国家に寄与してきた。炭坑労働に従事する労働者を確保するため、日本初の鉄筋コンクリート造の集合住宅が造られたのもこの時期である。 端島の30号棟が建造されたのは大正5
年。 当時日本に鉄筋コンクリートの建物は端島以外はなく、東京でさえ煉瓦造りの建物が専ら防火対策の建造物としてモダンな意味合いの下造られたのが主流の時代であった。
建築史上進んだ技術を有しながら、しかしその住環境は同じく大正7年に建造された16~20号棟同様、極めて劣悪なものであった。これは当時の日本における国策がぎりぎりの形で直接影響されており、それ以外の選択肢があり得なかったことを如実に示している他無い。 当時の日本における近代化の一環を示すものとして重要であろうと考える次第である。
2. 端島には21世紀の世にあってなお、炭住(炭坑住居区)がほぼ完全な形で残されている。
かつて日本は有数の石炭産出国として世界に誇示していた。北は北海道から南は熊本県まで、およそ800ヶ所もの炭坑がそれこそ日本の産業を地下から支えていた。
しかし日本各地に数多存在した炭坑は、昭和30年代中旬よりのエネルギー革命により次第にその数を減らし、昭和28年頃の石炭不況を皮切りに昭和35年の三井三池闘争に代表される労働争議、加えて昭和38年大牟田・荒尾三井鉱炭塵爆発、昭和40年同じく筑豊稲築山野鉱炭塵爆発と事故が相次ぎ、国内石炭産業は暫時衰退の一途を辿った末に国家のエネルギー政策から除外され、昭和53年の北海道北炭夕張炭坑ガス突出事故を止めとして事実上石炭産業は国家から見捨てられるに至った。
端島鉱の閉山は昭和49年1月15日、無人化は同年4月20日。 その2年後の昭和51年、筑豊最大を誇った宮田大野浦鉱が閉山した。 この時点で九州に残った炭坑は、端島と同じ三菱系の高島鉱と三井系の池島鉱、そして大牟田・荒尾の三井鉱だけであった。 これらの炭坑は最終的に閉山に追い込まれるに至ったが、現在までに採炭に従事した人々の住居を残しているのは、実に宮田の大野浦炭坑の一部と池島鉱の他に例が見あたらない。
現在、福岡県田川市の石炭記念館に、当時の炭住がレプリカとして残されているが、これは実際に人が住んでいる訳ではない。また、宮田町の炭住には小規模ながら住人が存在しており、平成13年11月30日閉山した池島のアパートには僅かではあるが住んでいる方がいる(平成14年8月時点で約700人)。 しかしながら、端島の住居跡がこれらの住居跡と決定的に異なるのは、それらの住居が実に昭和49年4月20日で時間が止まったと言うことである。 高島にしても池島にしても、現在までは曲がりなりにも住人はおり、それぞれの営みを続けている。しかし端島は、その日から人は全く不在となり、しかもそれがいつか帰ってこられるだろうとの希望を持って島を離れた人たちが大勢居たと言うことに、この上もない悲哀と無常さを感じる。
それは端島にある住居に、30年近くたった今でも生活のにおいがかすかに残されていることからも伺い知れることができる。ここにこそ、現在の端島の価値がある。これら大規模な炭坑従事者居住区のほぼ完全とも言える保存状態は、日本はおろか世界にも類を見ない存在と言っても過言ではない。 現在日本には過去、採炭に活躍した設備等についてはいくつかの保存例や保存に向けた動きがあるが、ことそこに住んでいた人々の住居に関しては極めて実例が少ない。
それは、かつて炭坑を抱えていた自治体の脱炭坑の姿勢による現れであり、その気持ち、姿勢は良く理解できる。しかしその止められた時の間、現在端島に残されている昭和49年4月20日から凍り付いた時間の流れは極めて希少価値に溢れるものであり、この上なく貴重であると考える。
3. 端島を語るとき、それは日本の近代化の目を開くときである。
端島は炭坑の島である。 従ってそれ以外の産業はあろうはずもない。従って端島に住む人は石炭を掘り出すという、究極的にはただそれだけのために働いていた。
端島ほど、明治・大正を含めた戦前・戦中期と戦後復興期とが、そこに従事する人たちの命運を左右した事例は他にないと言っても過言ではない。しかしながら一方で、戦後の混乱期を克服した日本は石炭と鉄鋼を基幹産業に据え、その後の高度成長期へ驀進する時、まさに石炭産業はこの上もない活況を示した。
戦後、国策により石炭増産に重点が置かれると、石炭産業はにわかに活況を取り戻し、端島も例外ではなかった。昭和30年代、端島は長崎市や博多を抱える福岡県よりも裕福であり、何事においても先進的であった。 これが端島の黄金期であったことは疑う余地もない。しかしその後の石炭を取り巻く環境は激変し、その後の炭坑の運命は今更説明する事柄でもない。 それでも端島は昭和49年まで操業し、高島は昭和61年、池島は平成13年まで永らえた。 日本の石炭産業は、平成14年1月の北海道太平洋炭坑閉山を持って終焉したが、この一連の出来事は、日本の将来を暗示しているようで非常に恐ろしい。即ち、戦前戦中は曲がりなりにもエネルギー自給ができた時代であり、戦後の一時期もそれは継続できた。 しかし、次々起こった炭坑の閉山は裏を返せばエネルギー自給を放棄したことであり、太平洋炭坑閉山はその象徴である。 日本は島国である。 しかもエネルギー自給ができない環境にありながら先進国となった、極めて希有な国家である。 そのことが現在の端島と重なり、ことごとく共通点が見いだされることに恐怖を感じる。端島は未来の日本の姿なのか?そう思いたくはないが、現在の廃墟と化した端島の姿を見る度にその栄枯盛衰がエネルギー自給ができない日本国と重なり、いかにも末恐ろしい。
端島はこれからの日本を示唆しているものと考え、現代日本の戒めとすべきであろうことは、我々日本人にとって肝に銘じておくべきと考える。
終 章
端島の将来を考えるとき、それは途方もない困難に直面することは想像に難くない。 しかしながら端島を真に後世に残そうとするのであれば、相応の行動と努力が必要である。
端島を保存する上で直面する困難について、下記に列挙しようと思う。
- 端島の風化は抑止できない水準にまで達しており、これを防ぐ手だては強大な資金力と行動力を持つ団体に委ねるほか無い。
- 端島の崩壊は、定期的な検査と部分的修復によって防止し得るものであり、そのためには然るべき監視員が必要である。
- 端島を後世に残そうとする趣旨を然るべき団体に納得させ、その力を持って遺産登録等の行動に出ることが必要であろうと考える。
- 端島には、そこが生まれ故郷であるという人がいる事実がある。それらの方々の賛同を得、“故郷”としての端島の位置づけを打ち立てていくことが肝要。
- 端島は国家遺産であることを、相応の人物に納得させなければならない。
端島の崩壊は時間の問題と思われる。
日本国内で遺産登録が不可能であれば、外部からの支援が必要であろう。 但しそれは最終手段であって、まずは端島を本当に残すことで一致しうる人々の結集が必要である。
従って国内でどれほどの行動がとれるのか、この点について広く意見を集約し、究極的にはユネスコ等への働きかけも念頭に置いて保存運動を行っていくことこそ、重要であろうと考える。
平成15年2月19日 軍艦島を世界遺産にする会 代 表 坂本 道徳 事務局 三嶋 淳一 |