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さまざまな軍艦島

1. 端島(軍艦島)への思い
※ 自己紹介(道徳の由来)

※ 昭和29年福岡の筑豊の炭鉱町生まれ4月で50歳

    現在長与町でパソコン教室の経営
その傍らNPO法人軍艦島を世界遺産にする会の理事長

    12歳のときに筑豊からこの端島(軍艦島)へ5家族くらいで連れてこられた
島へ渡る前夜長崎市内で食べた中華料理はおいしかった
しかし当日12月の荒れる海に初めての船で前日の嬉しさとは反対の苦しみ
何でこんな島に着たんだろうという思いがあった。
ある大きな宿泊施設で一晩畳の上で苦しんでいた記憶が今でも残っているし

    この島への第一印象として悪さはかなりのものでした
しかし日がたつにつれ今まで見たこともなかった高層アパート、7階建ての学校
島の都会のようで結構快適な生活を送っていた。
中には映画館、売店、本屋、生活にたる物はほとんど得られた。
私の住んでいた部屋は6畳二間、と台所・・・ここに親子5人
今考えると狭い間取り・・・しかしその当時はそんなことを考えたこともなかった。筑豊では6畳一間のアパートに間借りしていたこともありましたから。
5年前に25年ぶりに上陸して部屋に行ったら・・たんす、火鉢、郵便ポストなんかが残っていて当時を振り返るには十分でいつしかタイムスリップしていました。

    30年前たぶん今ぐらいのとき・・・そのころは長崎に下宿・・

    大学に通っていましたので・・お金がなくなると島の両親に無心に行っていた

    その日に限って島に着いたとき・・桟橋によそ行きの服ので両親がいた・・
聞いてみたら今から広島に・・・一便違っていたら会えなかった

    そのまま一緒に長崎にでた・・それがこの島との別れ・・それから25年
たって45さいの同窓会・・

※ 島へ渡った日

※ 島の生活(電気ガス水道はすべてただ)必要なものはほとんど手に入った
○ 風呂が一番の社交場(同窓会のこと)
  風呂に行くまでのスリル感・・あとのジュース、アイス
○ 屋上は遊ぶ場所でありデートの場所
○ 限られたスペースで工夫をしながら遊んでいた(ビー球)
  さまざまな地域から来ているから多彩な遊びがあった
  また閉鎖的な部分で文化的な活動でかなり有名だったらしい(カルタ、楽団)
○ 緑なき島という表現をされていましたが屋上には沢山の緑がありました
○ また夫婦喧嘩・・・大人は酒・・近所の大人

○ よほどのことがない限り鍵をかけなかった
○ 住んでいた部屋は6畳二間・・それでよかった
  閉山後各部屋を見て身分社会を実感した 


※ どんなイベントでも島民みんなが協力し合った
  隣組的な付き合い
※ 島を離れた日
※ 25年ぶりの端島
※ 端島への思いの違い

端島の紹介

長崎港の沖合い19キロ

当時は大波止から1時間20分かかっていました

高島町の隣の島・・・端島通称軍艦島

長さ480メートル、幅160メートル・・

周囲1.2kの今は無人島

古い高層鉄筋アパート群、コンクリートで作られた要塞のような護岸。

外観から「軍艦島」の名前で呼ばれています。

「端島」をはじめて『軍艦島』と表現したのは1923年(大正12年)長崎日々新聞が最初であると言われています。 これは「コンクリートの護岸に囲まれた島の姿が建造中の旧日本海軍の最新鋭戦艦『土佐』に似ていたため」というのが通説になっています。

1890年(明治23年)海底炭鉱が操業。日本初の高層鉄筋アパートが建設されました。

最盛期の1959年には住民は5259人で人口密度日本一・・・

1974年(昭和49年)に閉山・・以後無人島です

軍艦島は上陸禁止であったことが幸いにして島の町並みが閉山当時のまま残され歴史と暮らしを物語る貴重なものがそのまま残されています。

4年前に同窓会で25年ぶりに上陸したときには(そのときには完全な上陸禁止だとは知りませんでした)自分の住んでいた部屋に行くとなつかしいタンスや火鉢・・そして

なつかしい高校時代のノート、教科書がそのまま残っていました

まるでタイムスリップをしたような感覚です。

炭鉱跡や町並みが完全に近い形で残された例はわが国ではありません。

またこの端島の建物の面白さは

一般の方が島を巡っているうちに自分がどの高さ(何階に)いるのかをわからなくなったりするような錯覚を覚えるそうです。

これは建物自体が最初からきちんと設計されて作られたものではなく

その状況状況で建て増しされたことが原因であり

またこの狭い空間の中での人間の知恵が生み出した産物なのだと思えます。

そういった状況の中で人々はその形や住空間にならされそれが当たり前のように

生活できたということはどんな非日常的なことでも慣らされることで

人は非日常を日常のものにできるということかもしれません

私もこのしまでの生活がちょうど青春時代であり思いでは沢山あります。

プライバシーを無視したような近所付き合い。。。

島に住んでいるという感覚がないような日々の生活

店はあり、病院、映画館もありパチンコもあり食堂もある・・

特別生活に困るものもなかった。

時化の日のラーメン生活ぐらいでしょうか・・・

学校も7階建てというその当時ではかなりのインパクトのある建物ではなかったでしょうか・

島の平坦な部分は炭鉱のための施設であり残りの空間の島のヘリにしがみつくような形で住居を確保しなければならなかったことはあの高層アパートを構築しなければならなかったことを考えると

恐ろしいほどの圧迫感が感じられますが

それはそれなりのルールが暗黙の中で存在し老若男女の人々が家族ぐるみの生活を営んでいたのは事実です。

また島内で完結されていたのは・・ゆりかごから墓場まで・・たとえそれが不満足な施設であったとしても都市社会で必要とされるものを一応ワンセットで備えていたことも

病院がありサンバがいてお寺がありということにも繋がっていきます・・・

一時期緑なき島とマスメディアでは言われてきましたが

むしろ意外と緑の多い島であったような気がします。

それは何故か・・島民の人々が汗と共同作業によって建物の屋上やテラス、岩盤や埋立地の人工庭園などに緑を置き・・・求めるがゆえに努力して厳しい環境の中で育てていった事実があるからです。今でも屋上にはかっての屋上菜園の後が残っています。

この一例をとっても極限状況の中での住民の創造的姿勢と共同体意識の高さがうかがえます。

これは外部の人達の端島(軍艦島)への固定観念を払拭する事実でありむしろ不思議な明るさを持つものです。

これは町作りの結果としての空間を単に様式や手法として学ぶことではなく

人間と環境との対応のあり方を時間、空間の違和感を超越しようとする

際立って典型的な存在といえると思います。

こういった固定観念の中での創造では新しいものは生まれない。

むしろそれを超越できる環境に追い込むことで新しい創造ができるのではないのでしょうか。

軍艦島みる尺度は一人一人違うと思います

人はすべて自分中心のものさしで他を図りたがるものです

自分の町や住まい仕事・・生活を図りなれているとそれ以上のものさしで

図らなくなってしまいます

これは軍艦島を・・地獄島、緑のない島と表現するのは簡単でしょうが

ものさしを変えて図ってみるとその中には明るく楽しいダイナミックな

島おこし、町つくりがされていたことも見えてくるのではないのでしょうか。

また皆さんの町を考えるときに皆さん一人一人の考えと尺度は違うと思いますが

もう一度尺度を変えて考えてみる時期かもしれませんね

こういった島の断片をお話をしましたが

さまざまないきさつで

この島を日本の近代化を支えた産業遺構として何とか保存できないかという思いから

私はこの活動を始めました。

「軍艦島を世界遺産にする会」

これを始めようとしたときに

私は周りの方々から

なんて馬鹿なことを始めたんだろうとか

そんなことできるわけがないとか

さまざまな声が聞こえてきました

多分今でもそう思っておられる方もいるのでしょうが

世界遺産・・・壮大な夢です

でも夢の一歩は常に周りの理解は得られないものだと思います

しかしだからといってあきらめていては

夢はただの空想でしかないのです

私がこの会を設立して思ったことの中に

人と人との「縁」えにし・・を深く感じました

いま多くの方がこの運動に賛同され活動をしていただいていますが

ひとり一人の方とある縁でつながりは・・メールで話し、電話で話しそして

会って話して理解を深めることがどんなに素晴らしことなのかを知ることができました。

森教授とはもうお知り合いになって2年以上経ちますが

最初はメールだけのことでした・・・しかし先生は最後には会って話をしないとお互いに理解はできないよといわれ・・初めてお会いできたのは

ほんの数ヶ月前でした・・・

もっと早くお会いしていればと思う気持ちは今でもあります。

しかしそこへお会いしに行くための勇気をためらったことがこんなにも時間がかかったのだと思います。

今わたしは・・この人と会いたいと思うときにはできるだけ迅速に会うように心がけています。それが私の夢を一歩でも進んでいくための「縁」をつなげていくものだと信じています。

さまざまな知恵を出すのは自分自身だけでは不足する専門的なことなど沢山の「縁」が

一つ一つ解決してくれます。

皆さんの中に眠っている知恵を「縁」というつながりで出し合いませんか

そしたら今後の我々が向かおうとしている道が見えてくるかもしれません。

保存活動
※ 最初は単なる郷愁の念だけ
※ なぜ今まで30年も放置されたのか疑問
※ ホームページで過去の島の様子を語り始める
※ 若者たちの廃墟ブームの中での位置づけ・・・トップクラスの廃墟
※ 過去の経過4年間の歩み
   2001年10月端島が高島へ無償譲渡
   加藤康子さんとの出会い・・去年の北海道の世界鉱山会議の委員
 世界遺産・・・
1972年の第17回ユネスコ総会で採択された「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約」のことです。

 世界遺産条約が生まれたのは、地球上に存在するさまざまな文化遺産、自然遺産を、ある特定の国や民族のものとしてだけでなく、世界の全ての人にとってかけがえのない宝物として、保護していこうという考え方


あくまでも手段であって最終の目的ではない
日本の近代化を支えた炭鉱の歴史、また高島は石炭発祥の地でもある
これを後世に伝えていく義務が我々にはある。
元島民という感覚だけではなく産業遺産の保存という観点で考え始めた。
炭鉱が消えていき今は面影すらないのが現状の中端島には30年前の姿がある
※ 去年1年の活動
   2002年12月準備会発足(写真展)野母崎でも
      野母崎商工会青年部との出会い・・水仙祭り・・端島へのこだわりの人達との出会い・・イベント、研究、観光、写真家など
   2003年3月設立総会、8月NPO認証、軍艦島フォーラム
      九州大学名誉教授 森祐行教授との出会い(長崎新聞の記事から・・海の道構想)端島、高島、伊王島、池島、崎戸を結ぶ研修権・・青空博物研修権
箱を作るのではなくそこに存在することだけで博物館足りうる。長崎には沢山ある
      長崎大学後藤恵之輔教授との出会い・・福岡志免炭鉱の出身(産業考古学会会員)現在副理事長として軍艦島のさまざまな研究をされている
   2003年11月軍艦島周遊ツアー150名の参加

軍艦島と地域活性化
※ 軍艦島フォーラムの経緯・・N青年部の意気込み(軍艦島保存を考える)
  理事会での検討・・保存が主体か地域活性化と結びつけるのか?
  人を集めたいという感覚のマヒ・・・ひとを集めるには さだまさし

何人人を集めれば気が済むのか?・・・一時は市内での開催も考えた・
しかし青年部のがんばっている姿にすべてを考え直した。
※ 軍艦島資料館(水仙祭りにあわせて開館)12月14にちから1月15日で4000人
※ 高島でミニツアー・・端島周遊と高島散策・・石炭資料館
  写真家、絵を描く方、廃墟好きな若者たち、さまざまな興味を持った人がいる
  潜在的な数字は計り知れない
※ 伊王島の利点(宿泊施設)などを生かして

産業遺構ということでさまざまな地域でがんばっている仲間がいます

先日北海道でのフォーラムのチラシをいただいて驚いたのは

炭鉱遺産は・・・ごみか?  宝か?という見出しです

皆さんどう思われますか・・・

私たちは地域の財産として保存し活用することが望ましいと考えます。

北海道と並ぶ旧産炭地である九州に残った炭鉱遺構を生かすことは

西日本新聞で書かれていましたが

「誇れる地域の遺産」としての視点が生まれるということです

つまりこれは炭鉱や軍艦島だけにとらわれずとも地域の中での

誇れるものを作り上げることの視点を生むことだと思います

また軍艦島の保存は放置されたままの日本の今までの産業遺構にも

光を当てることになると思いますし地域おこしの起爆剤になると考えます。

軍艦島の崩壊を食い止めることは容易ではありませんが

「地域の財産」として皆さんの「縁」となるお知恵を貸してください。


※ 

今後の課題

長崎市、及び県においても観光資源としてこのしまがクローズアップされている点では

喜ばしいことだが・・

まだ保存の域に達していない・・・お金がかかる・・

しかしまた台風が来てこの島を壊してしまえばそれで終わり

観光資源にもならない・・・短期的な構想でなくこれを近代産業の遺産として

保存し語り継いでいく観光行政を願いたい・・・

軍艦島などの産業遺産をそれぞれの方々がどういう認識で評価し定義するかは

さまざまであろうが、我々人間とってのこういった近代史の中で今「現在」を

作り上げてきた存在であることはまぎれもないことである。

歴史の中に登場しない名もない人々が作り上げてきた文化や物をただ無用の物として

目をそむけるのかそれとも過去の人々の知恵と文化を我々は継承し「現在」に

向き合って活用するのかが問われている。

産業遺産は我々にとって何なのか?

博物館にあるものが遺産なのか?

産業遺産は廃墟なのかもしくは我々の財産なのか?

それを導き出すには多くの時間と考察が必要であろうが

今それぞれが考えなければならないことは生かし生かされている今の私たちの

今日を築き上げてきた人がいたという事実でありその近代の歴史を後世に継承していくのは今に生きている我々のほかに誰もいないことも事実であろう。


                ◆参考文献「軍艦島実測調査資料集」
                      東京電機大学出版より
 
 
 

軍艦島から始まる海の路

「青空博物研修圏」を創ろう

九州大学名誉教授 森 祐行

棄てられた島

 長崎市街を抜けて国道449号線を南に向い、三和町から野母崎町に入ると、右手一杯に海が広がる。海上に軍艦島が浮かんでいる。正式の名を端島という。かつては、石炭を掘り出すために5千人からの人々が住んでいたが、今は人っ子一人いない無人島である。

 人々が去って約30年、今、廃墟が人々を引きつけている。軍艦島に想を得た音楽家、画家、映像作家もいる。この夏、野母崎町で開催された「軍艦島を世界遺産にする会」のフォーラムには100人を越える人々が集まった。新聞は、「会の代表が『軍艦島は日本の近代史をつくり上げてきた産業遺産。そのことを語り継いでいかなければならない』と挨拶し、パネル討論では『島の住宅は建築史的にも重要な様式』『高島などの炭鉱が今の日本をつくりあげた』などと活発な議論がなされた」と報じている。

戦いすんで日が暮れて

 日本の歴史を見るとき、わが国の近代化に貢献した石炭産業の役割を忘れてはならない。長崎市港外の島、高島にあった民営の高島炭礦と福岡県大牟田市にあった官営の三池炭鉱がそれぞれ三菱財閥と三井財閥の、ひいては日本の資本蓄積の基盤を作ることになった。明治維新以後、日本は近代化と反植民地化の手段として外貨獲得、富国強兵に力を注いだ。その行き着いた先が太平洋戦争であり、そして敗戦であった。

太平洋戦争によって産業基盤が壊滅的な打撃を受けた。敗戦後、石炭産業は経済復興の重要な担い手として石炭の増産に力を尽くし、地域の発展に尽くした。しかし、国内炭の価格が輸入炭や石油の価格より高くなるにつれ、かつては産業のコメともてはやされた国内炭は経済成長を阻む「お荷物」扱いになってきた。そして、平成14年(2002年)1月30日、北海道釧路市の太平洋炭砿が閉山した。この日をもって、平成13年(2001年)11月29日に閉山した長崎県西彼杵郡外海町の松島炭鉱とともに、日本における石炭生産の幕が閉じられた

 太平洋戦争の敗戦後、人々は経済復興に情熱を傾けた。そして経済復興は見事に果された。しかし経済成長と共に高騰を続けていた平均株価は平成元年(1989年)12月29日を最高値にして翌年1月4日から下落を始め、バブル経済の崩壊が始まった。いま、わが国の倒産企業が外国資本に買収されている。今また、経済戦争という第二の敗戦から立ち直らねばならない時を迎えている。

人が歴史をつくり、歴史が人をつくる

 経済はあくまでも手段であって目的ではない。人々は経済を復興して何を求めようとしたのであろうか。もう一度、武力戦争に敗れた昭和20年(1945年)当時を思い起してみよう。日本を武力国家から文化国家に立て直そうとした人々がいたことを。民衆にパンを、人はパンのみでは生きられない、この二つのスローガンが叫ばれた時代があったことを。武力と経済、共に手段であるべきものが、いつのまにか目的となってしまい、戦争という形で人々に苦しみを与えてしまった。今こそ、文化国家建設のために人生の経験者たちは過去を語るべきである。

産業は時代と共に移り変わる。だが、新しい産業も古い産業の技術を土台にして新しい技術を産み出していく。炭鉱の技術も形を変えながら、人から人へと伝わり、今も生き続けている。では、これらの技術を産み、育てていく推進力は何であろうか?それは意欲と情熱だと思う。人は社会に規定されるという。しかし、社会は人がつくったものである。人が社会を変えていく。社会を変えようとする、その意欲と情熱が技術を産み、育てる。

ならば、意欲と情熱はどうして育まれるのだろうか。人々の意欲と情熱は歴史の所産である、と私は言いたい。なぜか。理由は簡単である。私がここに存在するのは両親がいたからであり、両親にはそのまた両親がいたからである。物理的な肉体の存在だけでなく、技術や知識や価値観を含めた精神的な存在も先人が作った歴史の延長線上に存在している。あえて狼に育てられた“狼人間”の例を出すまでもないであろう。「現在」は「過去」の延長線上にある。過去を知ることによって現在を知り、より良き明日を切り拓くことが出来る。日本の進路を見出すには歴史を知ることから始まる。それでは遅過ぎるとの非難がある事は当然である。だが、先進国という学ぶべき国があった過去とは異なり、これからの日本にはそれがない。やはり、ヨーロッパの国々がそうであるように、遅いかもしれないが、歴史の中から学ぶしかない。

青空博物館

長崎県には石炭を掘り出した島々がある。島には、我が国の歴史において重要な役割を果した石炭産業の遺跡がある。先人の残したものを活かすのか。殺すのか。今、私たちの英知が問われている。豊かな自然と産業遺跡を未来に活かすことは私達の責務である。

青い海と青い空の中に白い軍艦島(端島)が浮かんでいる。ローマの遺跡や吉野ヶ里遺跡のように、炭鉱の遺跡も青空の下、その地にあってこそ、その価値が現れる。人々は、その地に立ってこそ、その遺跡を実感できる。

人は具体的な物を見て、触って、話しを聞いて、その物の価値や背景を実感できる。博物館といえば立派な建物の中に高価な品物が陳列されている場景が浮かんでくるが、その必要はない。品物を前にして、その品物について語りかける人がいて、その話しを聞く人がいる。そこが博物館である。誰にでも思い出の品はある。その品はその人にとっての宝である。金銭には代えられない宝である。昔、語り部という人々がいた。思い出の品を前にすれば、誰もが語り部になれる。

ある物を前にして人と人が語り合えば、互いに何かを感じ合うことができる。職業としての研修には達成目標と基準が必要であるが、人生のための研修には客観的な目標や基準は不要になる。博物館の機能に、職業上の技術や知識の向上に直接、役立つ研修があるのは当然であるが、私は敢えて、職業と直接には結びつかない研修の場としての博物館を提案する。

 

端島総合年表

西 暦年号月日主要事項
1810文化7年端島で露出炭が発見される。端島は当時、草木も無い水成岩の瀬であった。漁民が石炭を『磯掘り』していたとの事だが、発見者は不明である。
1870明治3年天草の人、小山秀氏が、端島砿を創業。
岩崎弥太郎、九十九商会設立。
1882明治15年旧鍋島藩深堀領主、鍋島孫六郎氏の所有となる。
1887明治20年5月26日『夕顔丸』が進水。日本最初の鋼鉄船(210トン)として、三菱長崎造船所で建造された。建造費、33,550円。
1887明治20年鍋島氏が端島第一堅坑を開坑。この時、開坑(44メートル)は、明治30年の坑内火災により閉鎖された。当時の雇人日給25~50銭程であった。
1890明治23年8月4日三菱社が端島炭坑の経営にあたる。三菱が鍋島孫六郎氏より10万円で買収し、高島炭坑の支砿として24年より採炭を開始。高島砿を陵駕する出炭量を上げ、27年に独立砿となったが29年に再び支砿に戻った。
1891明治24年蒸溜水機を設置し、各戸に飲料水配給。同時に製塩事業も行なわれた。明治41年頃には、高島に製塩工場2箇所、蒸発池3箇所、端島には製塩工場1箇所、蒸発池9箇所、設置されていた。大正15年当時、端島には蒸発池7箇所があり、1日、約340石の蒸溜水が精製された。
1893明治26年私立(社立)尋常小学校を設立。
1895明治28年端島旧第二堅坑が開坑。深さ168メートルまで開さくし、昭和9年改修が完了。追掘616メートルに及んだ。
1896明治29年端島旧第三堅坑開坑。明治27年に着手し、深さ161メートルまで開さくした。昭和10年まで使用された。
1897明治30年4月13日端島砿で坑夫のストライキが起る。漏水で坑内作業が危険なため、坑夫700人が入坑を拒否し、警官40人が出動し、24日には落着した。
蒸汽管の過熱により、上八尺層火災発生。採炭中止。
端島第1回埋め立てが行なわれる。
高島、端島の納屋制度廃止。
1899明治32年端島第2埋め立てが行なわれる。
1900明治33年当時の端島の戸数93戸。
端島第3埋め立てが行なわれる。
1901明治34年端島第4埋め立てが行なわれる。
1905明治38年台風により端島南部、西部が破壊され、社宅38戸が破壊され、社宅38戸が流出した。
1907明治40年高島―端島間に海底電線が完成。
端島第5回埋め立てが行なわれる。
1912明治45年キャペル扇風機を導入。
1916大正5年12月わが国最初の鉄筋コンクリート造アパート、30号(7階建)が完成。
1918大正7年三菱鉱業株式会社設立。
鉱員アパート16~18号(鉄筋コンクリート造、16、17号9階建、18号6階建)、通称『日給社宅』が完成した。その後、大正11年に19、20号が竣工した。(6階建)昭和7年には、18、19号が3階分増築され現在の形(16~19号9階建、20号6階建)になった。
高島二子交流発電所海底ケーブルによる端島坑内への電力輸送を実施。
1919大正8年9月5日端島砿で賃金争議が起る。
1919大正8年端島第4堅坑開さくに着手。
8号職員社宅(鉄筋コンクリート+木造混構造3階建)、建設。
1921大正10年端島が軍艦『土佐』に似ているところから、長崎日日新聞が『軍艦島』として一般に紹介した。
泉福寺(木造2階建)、建設。
1922大正11年上陸桟橋(クレーン式)が完成。
1923大正12年端島第4堅坑完成。上部採掘に着手。
12号職員社宅(鉄筋コンクリート+木造混構造3階建)、建設。
1925大正14年5月21日端島第4堅坑開坑。大正8年に着手し、12年に堅坑完成。深さ353メートルまで開さくした。通常は排気用として、第2堅坑に支障がある場合はその代用として使用され第2坑と共に閉山時まで採掘された。
1925大正14年台風により端島南部、被害を受ける。
坑内でのキャップランプ使用開始。
1926昭和元年長壁式採炭法を試験実施。
1927昭和2年映画館『昭和館』(鉄骨レンガ造2階建)、落成開館。
1929昭和4年1月5日端島坑内水没事故発生。死者11名。
1930昭和5年端島第2堅坑掘下げ工事に着手。
台風で西海岸破壊される。
1931昭和6年『夕顔丸』、若松営業所より回送され、以后、高島砿業所の社船として、長崎―高島―端島間を運航した。
25号職員社宅(鉄筋コンクリート造5階建)、建設。
端島第6回埋め立て行なわれる。
1932昭和7年給水船、『三島丸』、進水。
これまでの馬による坑内運搬をエンドレス(ベルトコンベア)運搬に変わる。
1933昭和8年鉄骨製積込桟橋に改造。
女子の坑内労働禁止。
1934昭和9年端島第2堅坑掘下げ工事終わる。
端島小学校校舎(木造2階建)、完成。
1935昭和10年3月27日端島砿でガス爆発事故発生。死傷者の製塩事業廃止。
鉱員寮より出火、端島神社、及び社宅の一部類焼。
1936昭和11年6号職員合宿所(木造2階建)、建設。
端島神社再建。(現在の神社)
1937昭和12年端島第2堅坑完成。深部開発に着手。
20号社宅屋上に社立幼稚園設立。
1938昭和13年海底電信電話通信開通。
1939昭和14年朝鮮人労仂者が坑内夫として集団移住を開始。
エネルギー資源が統制され、石炭石油が配給制度となる。
56号職員社宅(鉄筋コンクリート造3階建)、建設。
1940昭和15年66号鉱員独身寮『啓明寮』(鉄筋コンクリート造4階建)、建設。
1941昭和16年端島砿、年間411,100トンの最高出炭記録。
14号職員社宅(鉄筋コンクリート造5階建、通称中央社宅)、建設。
1942昭和17年端島第2堅坑口で火災発生。
1943昭和18年坑内労仂時間制限令廃止。坑内勤務時間12~15時間となる。
端島第2堅坑ロープ切断事故発生。
1944昭和19年端島第2堅坑ヤグラ歪修正。
鉱員社宅65号(報国寮)、建設開始。1945(昭和20年)、北棟〔病院側〕が完成(鉄筋コンクリート7階建)。その后、1947(昭和22年)、3階分増築し9階建になり、1949(昭和24年)、中央棟が9階建で増築され、1958(昭和33年)、南棟が10階建として増築され現在のコの字形となった。
1945昭和20年6月11日石炭運搬船白寿丸(350トン)が、石炭積込中、午前11時16分頃、米潜水艦の魚雷を受け沈没。島が壊れるかと思われるような大爆発音で、当時の島民が恐怖と不安におののいた。幸い乗組員達は全員無事脱出、端島へ上陸出来た。
1945昭和20年7月31日午前11時55分頃、高島二子発電所が米空軍の空襲を受け、被害を蒙り高島はもとより端島への送電もマヒ状態となった。その為、坑内水の揚水が出来ず、8月12日には第4盤下迄水没した。8月から11月迄出炭ゼロ。ようやく12月13日から坑内復旧作業が始まり、12月の出炭は145トンを記録した。坑内水没で終戦を迎えた端島は、捕虜労務者、朝鮮人労務者達の送還業務が行なわれた。
1946昭和21年2月11日端島炭鉱労仂組合結成。組合員1,284人で結成され、初代理事長に、永田健次郎氏(当初は理事制)が就任した。
石炭、鉄鋼、化学肥料の傾斜生産方式を閣議決定。炭鉱向け特別物資の配給決まる。
NHKラジオ『炭鉱の夕べ』を毎週放送。
鉄柱カッペ導入。
1947昭和22年社宅入舎割当点数制度を実施。
公衆電話架設。
1948昭和23年4月1日炭鉱国家管理の3年間時限立法(臨時石炭鉱管理法)、施行。高島、端島両鉱区に分割認可。この年端島の人口、4,526人に急増。
1949昭和24年3月5日野母商船が、長崎―高島―端島―野母経由航路を就航。
1949昭和24年2月14日高島が都市計画法の適用により、人口集中地区に指定される。端島も昭和31年12月に人口集中地区に指定された。
高浜村立端島幼稚園が、泉福寺に開園。
1949昭和24年松竹映画『緑なき島』で、端島が全国に紹介された。
スキップ捲運転開始。
1950昭和25年高島端島沖海底調査開始。
三菱鉱業金属部門を分離。
2号職員社宅(鉄筋コンクリート造3階建)、建設。
砿長社宅(木造2階建)、建設。
67号砿員独身者合宿所(鉄筋コンクリート造4階建)、建設。
1951昭和26年11月14日端島砿の深部区域でガス突出事故発生。
コールカッター導入。
1952昭和27年端島プール完成。
1953昭和28年5月高浜村立端島保育所が完成。
65号アパート屋上に、面積338.25㎡の保育所が完成し、定員150人で開所した。30年4月に、面積87.12㎡を増築した。
22号棟(高浜村立役場端島支所)が完成。鉄筋コンクリート造5階建。1階、老人クラブ、2階、役場支所、3~5階、公務員住宅(役場支所職員)として建てられた。30年4月、高浜村より高島町に編入され、高島町役場端島支所となった。
7号棟(職員クラブハウス)が完成。木造2階建。
59、60、61号砿員アパートが完成。(鉄筋コンクリート造5階建)。
1954昭和29年7月高浜村端島港が高島港内に編入された。
1954昭和29年8月28日端島第1号ドルフィン桟橋が完成。
高波3メートルに耐える日本発のドルフィン式可動桟橋として完成した。
高島、端島海底水道布設工事、着工。
21号砿員アパート(鉄筋コンクリート造5階建、1階警察派出所、2~5階砿員社宅)建設。
1955昭和30年4月1日対岸の高浜村より高島町に編入。高島町端島となる。
1955昭和30年その結果、高島町の面積1.24k㎡(高島1.14k㎡、端島0.1k㎡)、人口16,904人(高島12,134人、端島4,770人)となった。
48号砿員アパート建設(鉄筋コンクリート造5階建)。
1956昭和31年8月16日台風9号により、端島第1号ドルフィン桟橋流出、南部護岸、工場が破壊された。
1956昭和31年9月9日台風12号により、端島プール破壊。
端島砿労仂組合ストに対し、会社ロックアウト。
1957昭和32年4月1日端島小学校木造校舎当直室から、4月1日早朝出火し、木造旧校舎および砿業所端島病院を全焼し、建設中の鉄筋コンクリート6階建の新校舎一部と隣接する65号アパートの一部を類焼、死者1人を出す大火災となった。
1957昭和32年10月1日高島、端島海底水道が完成。水源に恵まれない高島端島にとって、人口増加に伴い水の需要が年を追って増大した。これに対処する為、31年5月に、対岸の三和町為石、土井ノ首、川原を水源とする取水工事に着工し、32年10月に総事業費3億1千万円(このうち起債2億1千万円)で、岳路中継所から高島へ5キロ、端島へ65キロの各2本の海底水道送水管で送られる上水道が完成し、32年10月13日に1日あたり、3,500トン(端島は1日あたり1,350トン)の送水がなされ、4,252世帯に給水された。これにより、高島端島全島民の長年の願いであった飲料水問題が解消された。
31号砿員アパート建設。(鉄筋コンクリート造6階建、砿員住宅+郵便局+地下共同浴場)
1958昭和33年1月17日端島小中学校校舎が完成。
1958昭和33年総事業費96,640,000円(このうち国庫17,998,000円、起債29,100,000円)で、鉄筋コンクリート造6階建、面積4,305㎡の小学校22教室、中学校8教室の校舎を建設した。36年5月に、中学校5教室(この時点で現在の7階建)を、増築した。
1958昭和33年7月端島南部に町立端島プールが完成。12号台風の災害復旧工事として、25メートルプール6コース一基が完成した。
1958昭和33年10月31日端島第2ドルフィン桟橋落成。(波高7メートルに耐える)砿業所端島病院復旧落成。鉄筋コンクリート造4階建の病院本館、及び2階建の隔離病棟が完成した。
1958昭和33年10月31日この年、端島で電気釜、冷蔵庫、テレビなどが流行。
1959昭和34年9月17日台風14号により、端島第2ドルフィン桟橋流出。石炭積込桟橋も流出した。ほか、端島南部護岸も数箇所決壊した。
3号職員アパートが完成。(鉄筋コンクリート造4階建)初めて各戸に内風呂が設置された。
この年の端島人口、5,259人。
1960昭和35年端島沖探炭工事に着手。
1961昭和36年12月野母商船のつや丸と、せい丸が就航。長崎―香焼―高島―端島航路に就航した。46年の香焼埋立により香焼経由は廃止した。
51号砿員アパート完成。(鉄筋コンクリート造8階建)
上層開発工事疎水卸を中止。水没させた。
1962昭和37年3月17日端島第3ドルフィン桟橋落成。端島護岸より12メートル沖の海底を3メートル掘下げ、長さ25メートル、幅12メートル、海底からの高さ15メートルの人工島をつくり、これに船舶を接岸させるという新方式のものになった。
1962昭和37年3月31日社船『夕顔丸』が廃船。夕顔丸は日本で最初に出来た鉄船であった。三菱長崎造船所で明治20年5月26日に竣工された鉄船で、当時の建造費33,550円であった。総トン数210トン。長崎―高島―端島間を永きにわたり、いとしき便利を乗せる船として大いに活躍し、高島端島島民の足として親しまれたが寄る年波には勝てず、37年3月31日をもって社船としての大役を果たし、75年の航跡を残し廃船となった。
1962昭和37年4月1日中の島公園が完成。高島沖の中の島に、緑の少ない端島の人々のために憩いの場として、総事業費9,994,000円で、35年11月に着工し、面積4.2ha、遊歩道、展望所、広場、ブランコ、すべり台、船着場等を設置、完成した。
1963昭和38年端島で緑化運動の兆しが見え始める。園芸同好の有志、各地区子供会等、高島香焼から土を運び、屋上空地を利用して花壇、畑、温室等を造った。
1964昭和39年6月町立端島公民館が落成。総事業費1,759万円(このうち国庫100万円)で、鉄筋コンクリート造3階建、面積478.5㎡の公民館を建設した。
1964昭和39年8月17日端島砿でガス爆発事故発生。深部区域自然発火の消火作業中に、ガス爆発が起り、多くの死傷者が出た。消化のため、深部を水没させ、約1年間採炭休止。砿員1,056人から524人へと大幅な減員を行なった。転出者は砿員、職員家族下請業者その他を含め、約2,000人が端島を去った。
1965昭和40年2月10日三ツ瀬新坑4枚層に着炭。昨年のガス爆発事故による消化の為、端島砿のメイン採炭区域であった深部をやむなく水没させ、採炭不可能状態が約1年続き苦しい時期を端島は迎えていた。かわる新採炭区域を三ツ瀬区域に切り換え、39年9月から三ツ瀬開発工事が開始。39年9月~40年1月末迄、炭層(石炭がある層)にたどりつくための採掘が毎日続けられたが、当然、黒い石炭は1トンも上がってこなくて、出るのはボタ、岩石ばかりであった。毎日坑内から上がってくるボタで、端島西海岸の護岸沿いに人工ボタ浜が出来あがる始末であった。
1965昭和40年2月10日炭砿に仂く者にとって出炭がない程みじめで寂しいものはない。この様な暗い時期が約1年続いたが、全従業員は新生端島砿のために頑張り抜いた。その努力の結果、40年2月10日、三ツ瀬4枚層に着炭し、島は長かった冬眠から覚める如く活気づいた。5月4日、経営協議会に三ツ瀬新坑操業体制の提案が組合に行なわれ、近代的機械化炭砿へ飛躍するという大前提に沿って8月12日、労使双方の交渉がまとまり、9月13日より本格的操業に入った。12月5日には、高島二子堅坑完成及び新生端島の発足を記念して精出しに祝賀式典が催された。
1965昭和40年12月端島砿開坑以来の月産35,000トン出炭を記録。40年下期、新三ツ瀬区域移行后、今までの採炭方式を変え、鉄柱、カッペ及びドラムカッター等による新方式を取り入れた。始めは新機械等の不慣れな点や、炭層傾斜の変化等もあったが、坑内員各人のたゆまぬ努力という強力な支援によって、端島砿開坑以来の月産35,000トンという快記録が、40年12月樹立された。
1966昭和41年空気充てん機導入。石炭汽缶を重油汽缶に切り替えた。
26号下請従業員社宅建設。(鉄骨プレハブ2階建)
1967昭和42年端島教職員住宅完成。総事業費3,264万円で鉄筋コンクリート造4階建12戸収容の教職員住宅を建設した。
1968昭和43年端島砿、急傾斜区域を偽傾斜面払採炭方式で開始。
1969昭和44年10月1日三菱高島炭砿株式会社誕生。新石炭対策に呼応するため、三菱鉱業は最善の方策として、石炭部門を完全に独立させる事に決定。44年5月に臨時中央経協を開き、九州、北海道地区別にそれぞれ独立した新会社として発足させる事にした。結果、高島二子砿、端島砿、鯰田砿(福岡)の3砿を統括し、岩間社長を中心とする三菱高島炭砿株式会社として新発足した。3砿の概要を述べると、43年10月1日現在で、高島二子砿砿員数2,718人、職員数337人、出炭高1,161,000トン。端島砿砿員数674人、職員数87人、出炭高319,300トン。鯰田砿砿員数56人、職員数26人、出炭高18,089トン。
1970昭和45年3月31日端島小中学校体育館及格技室と給食室が完成。総事業費46,958,000(このうち国庫11,326,000円、起債1,110万円)で、鉄骨及鉄筋コンクリート造2階建、面積385㎡の体育館を建設した。1階は格技室と給食室、2階は体育館となっている。45年5月より、給食業務を高島町学校給食公社に委託した。
1970昭和45年6月19日木造組住宅(学校横)が全焼。死者2名を出す火災となった。
1970昭和45年10月1日第11回国勢調査実施。高島の人口14,518人、世帯数4,021世帯。端島の人口2,910人、世帯数871世帯。
三菱創業百年記念大運動会が開かれた。45年は三菱が創業されて丁度百年にあたる。
1970昭和45年それを記念した大運動会が催された。秋晴れの日曜日、学校グラウンドで全島民が集い楽しい1日を過ごした。
端島沖探炭工事中止を公表。
1972昭和47年4月23日47年度永年勤続者表彰式が行なわれた。職員クラブにて永年勤続者表彰式が行なわれ、表彰者94人、うち41名が25年勤続者でしめた。
1972昭和47年5月6日学校グラウンドにて、職場対抗ソフトボール決勝大会が行なわれ、大いに賑わった。
1972昭和47年7月5日全国鉱山保安週間に伴い、職員クラブにて、保安優良者の表彰式が行なわれた。
1972昭和47年9月3日端島労組青年婦人協議会主催納涼大会が行なわれ賑わった。
1972昭和47年9月24日島民参加『歩け歩け大会』が長崎半島で行なわれ家族連れで賑わい、健脚を競った。
1972昭和47年10月29日島民参加による『みかん狩り』が、西彼杵半島日並で行なわれ、秋の行楽を楽しんだ。
1972昭和47年11月19日体育館と公民館を会場に文化祭が4日間にわたり開かれた。
1972昭和47年12月24日年忘れ演芸大会が体育館で行なわれ、青婦協対主婦会の紅白歌合戦、漫才などの出し物があり、歌あり、笑いありの楽しい年の瀬であった。
1973昭和48年1月28日出稼優良者の島民慰安旅行が行なわれ、雲仙等に出掛けた。
1973昭和48年2月6日木造社宅が全焼。午前1時30分頃、24号(木造3階建)3階より出火し、31号アパートを類焼。死者1人を出す大火災となった。
1973昭和48年2月18日端島ごみ処理場が完成。総事業費1,703,000円で、メイヤー式処理能力1日当たり1トンのゴミ処理場を建設した。
1973昭和48年7月13日落盤事故発生。午前7時50分頃、上片12尺2段払に於いて落盤事故が発生。作業中の4名が生き埋めになり、救護班の懸命な救出作業も及ばず、1名が殉職された。
1973昭和48年9月7日端島砿の閉山が、端島労組に正式に提案される。
端島小学校開校80周年記念大運動会を開催。端島砿閉山前の最後の運動会が盛大に行なわれ、全生徒に記念メダルが配布された。
1974昭和49年1月10日端島砿が閉山。明治23年に創業を開始し、かつては年間30万トンを出炭するビルド鉱として生き抜いた端島砿も、『採炭可能なスミを掘り尽くした』事を理由に、この日、83年間のヤマの歴史に幕を閉じた。
1974昭和49年3月31日端島小中学校が閉校した。
1974昭和49年4月17日高島町役場端島支所が閉所した。
1974昭和49年4月20日端島が無人島になった。この日の午後4時50分発、端島発高島経由長崎港の野母商船つや丸を最後に、高島―端島航路は閉鎖。この便を最後に端島は無人島になった。最終便になったつや丸の原辰見船長、せい丸の大石末男船長両名に、一ノ瀬喬高島町長より感謝状が贈られた。
1974昭和49年4月20日4月20日以降、端島は無人になったが、会社(高島砿業所)による財務整理、撤収作業は続けられた。炭鉱所施設等の解体作業は49年末まで行なわれ、まだ使用可能な機器、設備類は高島に運ばれた。廃鉄材、スクラップ等は業者に売り、12月には高くそびえていた第2堅坑ヤグラも解体された。坑口はボタで埋め戻されコンクリートで密閉されて二度と人の目にふれることは無くなった。坑道は何年後にかは水没し、深い海の底へ消えていく。
1984昭和59年7月29日端島砿閉山10周年記念式典が、高島勤労福祉会館で行なわれた。約330名の元端島住民、端島砿関係者が集まった。
1991平成3年9月27日大型台風19号が長崎(佐世保付近上陸)を直撃。端島護岸3箇所が決壊。この台風19号は戦後長崎に上陸した台風では最大級(長崎海洋気象台観測最大瞬間風速53.4メートル)で、端島護岸約3箇所(小中学校横護岸、昭和館横護岸、31号前護岸、南部プール付近護岸)が決壊した。この時、昭和館(映画館)が護岸と共に、ファサード部分をわずかに残して完全に崩壊。翌年平成4年、国、県、及び三菱から予算をうけて高島町建設産業課が護岸修復工事に取りかかり、コンクリートミキサー車2台を端島に運び込み、大規模な護岸修復工事が成された。
1994平成6年10月9日端島砿閉山20周年の集いが、野母崎町民センターで開かれ、約360名の元端島住民、端島砿関係者が集まった。
1999平成11年6月6日端島砿閉山25周年記念祝賀会が、長崎市内のホテルで開かれた。
2001平成13年11月高島町が端島を三菱マテリアル(本社東京)より無償譲渡された。
2003平成15年5月11日端島砿閉山30年の集いが長崎市のセントヒル長崎にて行なわれ、おそらく今回が最後の集いになるだろうとの事。来賓に、三菱鉱業セメント、森本輝氏、高島町長豊田定光氏、その他多数来席、賑やかな30年の集いとなった。
2003平成15年6月19日

台風6号が長崎平戸付近を通過。長崎県全域暴風強風域に入った。端島小中学校横護岸側船着き場の海中ブロックが大浪のため動き、船着き場辺りは、船の接岸が不可能となった。12月末現在もまだ復旧作業はされておらず、接岸が出来ない状態である。

 
 
 
エッセィ アーサー・メイヤー
 
長崎湾の近くに端島という、小さな廃墟の島がある。私たちのメンバーがその島の話を聞き、インターネット、電子メール、及び電話連絡による調査の後、その島へ行くことになった。長崎港近辺で釣り人を案内している船頭に頼めば、端島の周囲を廻ってくれることがある。海岸に降り立ちたければ、船頭と奥さんに、理由を話して説得しなければいけない。

遠くから見ると、端島は直角と直線ばかりで形作られているように見える。途切れ目のない灰色の表面が、巨大コンテナ船の船体のように、海との境界をつくり、その上には斑紋のある四角い灰色の建築物が重なり合っている。これは細長い(400m x 100m)島で、昔からその名を『軍艦島』として知られている。

 我々は、近隣の緑に覆われた島々とは対照的な、この荒涼とした角ばった島に引き込まれていった。この小さな世界を周航してみると、両端の開けた平らな部分、片側では一箇所が下がっている部分を除いて、全島にびっしり背の高いコンクリートの建物が建っており、細い道で分断されているということがわかる。建物のデザインは様々であるが、それらが密集して、一つにつながった建造物のように見える。灰色の外観は島全体を取り囲んでいる岸壁で、コンクリートの高壁が島への出入りを阻んでいる。

 我々はこの地を一日かけて探検することにした。船頭が水面に現れたコンクリートの階段通路に向かって進み、どっしりとしたステンレスの扉に続く壁の割れ目をよじ登った。船頭はこの岩棚に船を寄せ、我々は船の舳からよじ登ってこのコンクリートの船体の冷たい塊に足を踏み入れたのである。

 端島は、近隣の島のような魚釣りのための島ではない。船を係留する静かな入り江もなければ、家族や個人が住んでいることを思わせる集落もない。ここは、人々を歓迎する解放的な場所ではない。かといって、長崎への海洋通路を監視している軍事要砦でもない。Alcatrazのように、牢獄島でもない。ここは、捨てられた町なのである。今は抜け殻となったが、端島は、かつて三菱が築き、管理・所有し、経営した産業の町であった。もともと石炭が露出していた島―というよりは岩―の地下には、海中から延びた上質の石炭の地層が横たわっていた。島全体が、そして数千の人口が、全て炭鉱業に関与していた。海底鉱山への地上の出入り口となったその島には、鉱夫やその家族、炭鉱を経営する企業の幹部、住民の健康管理をする医者や看護婦、全ての子供のための学校教師、床屋、店の経営者、銭湯の従業員の生活空間となった。この島は、ゆりかごから墓場までの小さな完全社会であった。炭鉱事業は約百年間、非常に効率よく続いた。端島には石炭を洗い、貯蔵する施設があり、貨物を船積みするのに便利な場所でもあった。船は鉱山から100mもの石炭を積載し、八幡など、こちらも海沿いの至便なところに位置している製鉄所に直接輸送された。

八幡製鉄所は、今ではその規模が十分の一に縮小され、石炭ではなく石油で操業されている。昔の製鉄所の建物はほとんど取り壊され、他のものに置き換えられている。例えばスペースワールド、これは合衆国のスペースシャトルの、実物大の模型が置かれ、宇宙飛行士であるネズミのマスコットやら、テーマソングまで作られた、テーマパークだ。これも八幡の再開発のひとつであり、住民たちは未来に期待している。

炭鉱の町端島の住民たちには、そのような幸運はなかった。島全体は、一つの事業のためだけに効率よく設計されていたのである。炭鉱業に関係のない活動、つまり映画館や食料品店というものは、その一つの目的を支える組織の一部にしか過ぎなかったのである。土地が足りなくなるにつれて、海岸線が埋め立てられ、面積は広くなった。しかし炭鉱業以外の大事業のための土地は余っていなかった。誰も6畳の間から画期的な仕事を始めた者はいなかった。その上、この離島への出入りは難しく、会社が規制を敷いていた。見知らぬ人がぶらっと行って二、三日島で過ごす、などということはできなかった。日本の政治経済が、これからのエネルギーを石油輸入に頼ると決定してから、地方の炭鉱は衰退し、炭鉱社会の意味と機能が消えていったのである。これには順応できず、都市化復興もできず、端島を再開発するという試みは見られなかった。19741月、炭鉱の完全閉山の決定が下された。それから3ヶ月の間に、人口は3000人からゼロになったのである。炭鉱のたて坑はふさがれ、設備は解体撤去され、労働者と家族は引っ越していった。その他の、さまざまな建物、学校、病院、先生たちの住居、炭鉱夫たちの銭湯、あらゆる職種の人たちが住んでいたアパート、そしてこれらの住民たちが(持ち出せる荷物に制限があったため)持ち出せなかったものは全て、島に放置された。そのまま完全に放棄された。ゆっくりと海の藻屑となるのを待っている。ここで理解しがたいのは、建物は耐久性を持って建てられたのだ。ここは厳しい環境であるにもかかわらず、30年経った後も、かなり原形をとどめている。しかしこの現存物を見ることで、最後の最後まで、人々が炭鉱の存続を期待していただろうことを計り知るのである。

人々は、長崎湾沖に浮かんだ、高層建築物の塊という、いわば巨大タンカーのデッキの上だけの生活を送っていた。従業員たちは、身分によって分類され、住居も分けられていた。炭鉱長だけは島で唯一、和風の木造建築の一軒屋に住み、その家は島の高台、上水道の給水タンク下にあった。それよりは下手の地区、鉱脈の露出部の上方には、幹部たちのための広い集合住宅があった。おそらくこの人たちやその家族を仕事に集中させるためであろうか、家の大きな窓は全て炭鉱施設の方を向いており、そこから石炭の山と炭鉱設備の幾何学的な景色と、後ろにはロマンチックな海の景色が望めたのである。この特権住宅の下には、その他の住民たちの居住区があり、こちらは社会的地位や会社の水準により、広さも快適さもピンからキリまでであった。医者と教育者が最上層階級、最も下は独身の鉱夫であった。階級による特権とは、眺めがよいということのほか、プライバシーの配慮、涼しい海風の入る方角、などがあった。最も下の階級では、小さな部屋を何人かでシェアして、食事も風呂も他人と一緒という状態であった。この階級制度は子供たちの施設までには影響しなかったようである。島には一つの保育園と一つの学校しかなかった。実際、保育園には高層住宅の最上階と屋上が使われ、学校は独立した建物で教室の前に運動用の広場もあった。子供たちは皆、ちゃんと平等に扱われたようであった。誰でも出入りできる屋上や路地が子供たちの遊び場所であった。

 私は、活気があった頃の端島の様子を想像してみる。どんな音が聞こえ、どんな匂いがしていたのか。そこでは、一人になる場所を見つけることなど、難しかったに違いない。今では、この島を歩いていると、まるで地球最後の生存者のような気になってしまう。島を訪れている人たちに出会うことも時にはあるが、たいていは、あたかも、形は残っているものの命が失われた、まるで珊瑚礁の死骸のような、ひと気のない住宅街の小道を一人っきりでぶらついているのである。ここには、輪廻感がある。古代に消滅した社会からエネルギーを採掘するために作られた場所、その場所自体が今や消滅している。この島は太古の沼の遺跡に錨をおろした、船の化石である。全てが衰退と崩落の痕跡を残している。波は岸壁の下方部を削り取り、執拗な侵食によって要砦が破壊されようとしている。人々が島を去ってから、波によって岸壁に大きな穴が開き、壁内部に詰めてあった軟弱な部分が侵食され始めた。学校の校舎は、片側で下のほうが侵食で壊され、柱の土台が丸見えの状態になっている。今や崩壊寸前の危機に震えている。関係者たちがその部分の壁を原物より強いものに作り替えたが、校舎の土台部分は丸見え状態のまま残っている。おそらく、内部構造の強度より周りを完全に修復する方を重視したのであろう。こういった建物は、鉄とコンクリートでできているにもかかわらず、永久的なものではなく、単なる採掘現場におけるテントにしか過ぎないのである。雨の一粒一粒がセメントをほんの少しずつ溶かし、内部の金属部分まで錆で腐食させる。この破壊による粉塵は微風によって運ばれていく。この微かな仕業が積み重なって、滑らかだったコンクリートの表面を穴だらけにし、内部の補強材を腐食性のある潮風にさらしてしまう。これら外壁の下には、まるで採石所のように、地面に破片が散らばっているのである。島は地震のあとのような状態にある。

 建物の環境は放置されるのではなく、維持管理されている方が、我々にとっても嬉しいし、気持ちがよい。しかしこの場所の日々の管理は30年前に突然打ち切られたのである。我々は、様々な破片物の散らばった廊下を歩いた。これらの建物のハードな部分の構造はほとんど無傷に見えるが、ソフトの部分はくずれ始めている。クレーターの間を我々は歩みを速める。我々は、月面を歩くアームストロング船長である。床板がきしみ、突然崩れて15センチほどの隙間から硬いコンクリートの土台がむき出しになる。アパートの中に入ることは、きわめて慎重さを要するが、入らずにはいられない。以前に訪問者があったことの証しである落書きを見つけるが、同時に、妙な、不自然な家庭生活の一場面があったりする。テーブルと椅子がこまごまとしたものと共に置いてあり、子供たちがお茶会を開いていたのを思い起こすように据え付けてある。その秩序のよさは、もともとあったにしては本当らしくなく、埃もしていない。どこもかしこも時の流れが表れている。風に揺れている金属製のフックは、それが垂れ下がっているコンクリートの表面に当たって、弓形の傷をつけている。今やこのフックにとっては、洗濯竿をつるすとかその他考えられることが目的ではなく、セメントが錆びてボロボロになるまで傷をつけることこそが、新しい目的となった。コンクリートにできた溝が、風と踊るフックの証しである。

 岸壁の上部には、腐食した木製の柱や、島を一周していた鉄道の枕木の端切れなどが穴をふさいでいる。この岸壁は、最高の眺めのある、島随一の散歩道であり、誰にでもデッキからの夕陽を見られる遊歩道である。友人と歩き回っているうちに、週末に一人で来た釣り人に出会う。いたるところで雨水が溜まって、不活発な蚊の幼虫の温床になっている。簡単に殺せる、成虫は致命的な平手打ちから逃げることを忘れてしまっている。この蚊たちが果たして最近の移住者なのか、もともとの住民の子孫なのかは、知る由もない。

 端島において、我々は、自分の死後がどうなるかを見た気がする。我々は海を渡り、大惨事の過ぎ去った時間、我々みんなが待ち望んでいた時間に、タイムスリップする。夕方になると船頭が我々を島から帰してくれる。ディーゼルの唸り声とポンポン鳴る音が静寂を破り、我々は島から脱出できることにほっと笑みを浮かべる。

「今まで島にいたのかい?」と船頭の息子が尋ねる。彼は最近、留学先のカリフォルニアから帰国したばかりで、目下失業中。「まさか。」と彼は言う。彼は幽霊がどうのこうのと言ったように思うが、記憶が定かではない。話を脚色してしまうだろう。端島はただの、無人化した小島にすぎない。その生い立ちだけで魅力的であり、効果を高めるための幽霊話は必要としない。この島は過去の文化の衰退を、そして我々自身の死をも連想させる。皮肉ではなく、端島は気の休まる、穏やかな場所だと私には思えた。

 廃墟となってしまったこの島は、次第に朽ち果ててのちに、このような場所が消えつつあることを人々に知らしめるのである。島は、廃墟の町が歴史的な遺跡へと置き換えられる魔法を、待っている。これをどうするかについて、以前の住民の間で、非公式な話し合いは行われている。明らかに女性に多いが、この島を安らかに海に沈めたいと言う人たちもいる。他には、私の友人のように、この島を何らかの形で、産業史上の世界遺産として認めてほしいと言う人たちもいる。どちらの運命が降り注ぐにせよ、その前にこの島を見ることができて、私は嬉しく思う。小額の寄付でも考慮していただければ、窓や裂け目を密閉するなど、建物を保存するための最小限の措置が取れるのである。驚くことに、企業は将来のことを考えず、今や人がよく訪れる博物館島になるかもしれないものに対して、投資を怠ったのである。この足で歩き回って腐食の状態を目の当たりにした今、島が安全な博物館になる可能性が、私には想像できない。

 

システムの崩壊  長崎県立シーボルト大学 情報メディア学科 藤沢 等教授

 
誰が言い出したのか長崎県端島には「軍艦島」という俗名がついている。なるほど軍艦土佐に似ているし、何よりも大日本帝国の力の象徴でもあったろう。日本のエネルギー政策の急先鋒として石炭を生産し続け、生産の拡大に伴って坑道は広がり人口は増え続けた。人口増加にしたがって島には高層建築が立てられ、何度かの埋め立てで島はパッチワークのように二重三重の岸壁で仕切られた。島の周囲1,200m、東京の9倍の人口密度、自家発電、島外からの水供給、黒いダイヤ(石炭)による高給、病院、学校、映画館、ダンスホールまであって、一つの閉じたシステムであった。

 しかし、現在は・・・一言で言えば「ぐちゃぐちゃ」。さながら無秩序に建てられた継ぎ接ぎ住宅は海上のラビリンス(迷宮)である。それが廃坑30余年を経て混沌とした廃墟となり、人々が去った後には家具や建具が散乱し、鉄部は錆落ち、床が抜け、天井が落ちている。その光景は、もう、絶句し、目を覆っても余りある。死と恐怖と腐敗の巨大な塊りである。

 軍艦島の崩壊はこのところ急激にそのスピードを速めているという。心ない侵入者による略奪と破壊がその一因だが、それ以上に軍艦島が瓦解してゆくスピードには意味があるように思える。なぜなら、同時期に建てられた多くの高層住宅が今も使用され続けているという事実があるからだ。建築基準法が及ばなかったことや直接的な潮風の影響などを差し引いても倒壊の痛ましさを十分に語ることはできない。

 これもまた、エントロピーなのか。エントロピーの法則とは熱力学の第二法則で、全てのものは無秩序に向かって進行する、というものである。この法則は情報量の式の逆数であり、全てのものは情報を失って無に帰すると言い換えても差し支えない。差し詰め軍艦島は壮大なエントロピーの実験場というところか・・。

 ひとは「人が住まなくなった家はすぐ壊れる」という。事実、空き家はすぐ朽ち果てる。「日々の修理・修繕がゆきとどかないから」。「風が入らないから」・・・とった理由がまことしやかに言われる。しかし、軍艦島を見た者は徹底的な崩壊の理由がもっと別のところ、もっと根本的で中心的な原因があることをはっきりと突きつけられる。

 「死」なのだ! 滅び行くものに美などない。醜く腐敗した、悪臭がただよう妖しさだけである。その妖しさを美と勘違いしてはならない。その怪しさに郷愁を抱いてはならない。軍艦島は訪れる者に「死」の意味を問いかけているのだ。そう、廃墟が語るものは「死」の向う側にある「生」の意味そのものなのである。

機械に代表される「死んだシステム」とは、目的が一つであり、完璧を要求され、出来上がった時が最も完全であり、時間がたつにつれて磨耗し破損し崩壊してゆく。それに対して「生きたシステム」とは、目的が複数あり、不完全で、時間がたつにつれ成長し、子孫を増やし、進化する。生きたシステムには部分と全体があり、相互に依存しあっている。にもかかわらず、部分の目的と全体の目的は相互に矛盾し合うのだ。互いに離れられないのに葛藤する。だから不完全だし、だから成長の余地があるのだ。

 「島から人が消えたとき軍艦島は死んだのだ」というのは簡単である。しかし、その答えは崩壊のスピードを説明するものではない。かつて軍艦島が生きていたとき、それはそこに住む人々が生きていただけでなく、石炭も、工場も、高層住宅も、茶碗一つ、箸の一本まで「生きていた」のである。それらが相互に依存しあい、互いの生きる意味を確かめ合っていたのである。

 生きる意味を見失ったのは人間だけではない。軍艦島に取り残された体育館も手術台もテレビも高層住宅も生きる意味を見出せなくなったのだ。それらに心はない。しかし、それら自身の意味がなくなったとき、それらは死に、ただ一つ、崩壊だけが目的となってしまった。生きていたころの日々が華やかであればあるほど、その死は醜い。

 生物だけが生き物なのではない。人工物や路傍の石さえも人と関われば生きる意味を見出し、廃棄されればたちどころに死んでしまう。軍艦島崩壊の速さはそれを語ることのできないモノ達の声なき声なのである。