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端島(軍艦島)への思い ※ 昭和29年福岡の筑豊の炭鉱町生まれ4月で50歳 現在長与町でパソコン教室の経営 12歳のときに筑豊からこの端島(軍艦島)へ5家族くらいで連れてこられた この島への第一印象として悪さはかなりのものでした 30年前たぶん今ぐらいのとき・・・そのころは長崎に下宿・・ 大学に通っていましたので・・お金がなくなると島の両親に無心に行っていた その日に限って島に着いたとき・・桟橋によそ行きの服ので両親がいた・・ そのまま一緒に長崎にでた・・それがこの島との別れ・・それから25年 ※ 島の生活(電気ガス水道はすべてただ)必要なものはほとんど手に入った ○ よほどのことがない限り鍵をかけなかった
端島の紹介 長崎港の沖合い19キロ 当時は大波止から1時間20分かかっていました 高島町の隣の島・・・端島通称軍艦島 長さ480メートル、幅160メートル・・ 周囲1.2kの今は無人島 古い高層鉄筋アパート群、コンクリートで作られた要塞のような護岸。 外観から「軍艦島」の名前で呼ばれています。 「端島」をはじめて『軍艦島』と表現したのは1923年(大正12年)長崎日々新聞が最初であると言われています。 これは「コンクリートの護岸に囲まれた島の姿が建造中の旧日本海軍の最新鋭戦艦『土佐』に似ていたため」というのが通説になっています。 1890年(明治23年)海底炭鉱が操業。日本初の高層鉄筋アパートが建設されました。 最盛期の1959年には住民は5259人で人口密度日本一・・・ 1974年(昭和49年)に閉山・・以後無人島です
軍艦島は上陸禁止であったことが幸いにして島の町並みが閉山当時のまま残され歴史と暮らしを物語る貴重なものがそのまま残されています。 4年前に同窓会で25年ぶりに上陸したときには(そのときには完全な上陸禁止だとは知りませんでした)自分の住んでいた部屋に行くとなつかしいタンスや火鉢・・そして なつかしい高校時代のノート、教科書がそのまま残っていました まるでタイムスリップをしたような感覚です。 炭鉱跡や町並みが完全に近い形で残された例はわが国ではありません。 またこの端島の建物の面白さは 一般の方が島を巡っているうちに自分がどの高さ(何階に)いるのかをわからなくなったりするような錯覚を覚えるそうです。 これは建物自体が最初からきちんと設計されて作られたものではなく その状況状況で建て増しされたことが原因であり またこの狭い空間の中での人間の知恵が生み出した産物なのだと思えます。 そういった状況の中で人々はその形や住空間にならされそれが当たり前のように 生活できたということはどんな非日常的なことでも慣らされることで 人は非日常を日常のものにできるということかもしれません 私もこのしまでの生活がちょうど青春時代であり思いでは沢山あります。 プライバシーを無視したような近所付き合い。。。 島に住んでいるという感覚がないような日々の生活 店はあり、病院、映画館もありパチンコもあり食堂もある・・ 特別生活に困るものもなかった。 時化の日のラーメン生活ぐらいでしょうか・・・ 学校も7階建てというその当時ではかなりのインパクトのある建物ではなかったでしょうか・ 島の平坦な部分は炭鉱のための施設であり残りの空間の島のヘリにしがみつくような形で住居を確保しなければならなかったことはあの高層アパートを構築しなければならなかったことを考えると 恐ろしいほどの圧迫感が感じられますが それはそれなりのルールが暗黙の中で存在し老若男女の人々が家族ぐるみの生活を営んでいたのは事実です。 また島内で完結されていたのは・・ゆりかごから墓場まで・・たとえそれが不満足な施設であったとしても都市社会で必要とされるものを一応ワンセットで備えていたことも 病院がありサンバがいてお寺がありということにも繋がっていきます・・・ 一時期緑なき島とマスメディアでは言われてきましたが むしろ意外と緑の多い島であったような気がします。 それは何故か・・島民の人々が汗と共同作業によって建物の屋上やテラス、岩盤や埋立地の人工庭園などに緑を置き・・・求めるがゆえに努力して厳しい環境の中で育てていった事実があるからです。今でも屋上にはかっての屋上菜園の後が残っています。 この一例をとっても極限状況の中での住民の創造的姿勢と共同体意識の高さがうかがえます。 これは外部の人達の端島(軍艦島)への固定観念を払拭する事実でありむしろ不思議な明るさを持つものです。 これは町作りの結果としての空間を単に様式や手法として学ぶことではなく 人間と環境との対応のあり方を時間、空間の違和感を超越しようとする 際立って典型的な存在といえると思います。 こういった固定観念の中での創造では新しいものは生まれない。 むしろそれを超越できる環境に追い込むことで新しい創造ができるのではないのでしょうか。 軍艦島みる尺度は一人一人違うと思います 人はすべて自分中心のものさしで他を図りたがるものです 自分の町や住まい仕事・・生活を図りなれているとそれ以上のものさしで 図らなくなってしまいます
これは軍艦島を・・地獄島、緑のない島と表現するのは簡単でしょうが ものさしを変えて図ってみるとその中には明るく楽しいダイナミックな 島おこし、町つくりがされていたことも見えてくるのではないのでしょうか。
また皆さんの町を考えるときに皆さん一人一人の考えと尺度は違うと思いますが もう一度尺度を変えて考えてみる時期かもしれませんね
こういった島の断片をお話をしましたが さまざまないきさつで この島を日本の近代化を支えた産業遺構として何とか保存できないかという思いから 私はこの活動を始めました。
「軍艦島を世界遺産にする会」 これを始めようとしたときに 私は周りの方々から なんて馬鹿なことを始めたんだろうとか そんなことできるわけがないとか さまざまな声が聞こえてきました 多分今でもそう思っておられる方もいるのでしょうが 世界遺産・・・壮大な夢です でも夢の一歩は常に周りの理解は得られないものだと思います しかしだからといってあきらめていては 夢はただの空想でしかないのです
私がこの会を設立して思ったことの中に 人と人との「縁」えにし・・を深く感じました いま多くの方がこの運動に賛同され活動をしていただいていますが ひとり一人の方とある縁でつながりは・・メールで話し、電話で話しそして 会って話して理解を深めることがどんなに素晴らしことなのかを知ることができました。 森教授とはもうお知り合いになって2年以上経ちますが 最初はメールだけのことでした・・・しかし先生は最後には会って話をしないとお互いに理解はできないよといわれ・・初めてお会いできたのは ほんの数ヶ月前でした・・・ もっと早くお会いしていればと思う気持ちは今でもあります。 しかしそこへお会いしに行くための勇気をためらったことがこんなにも時間がかかったのだと思います。 今わたしは・・この人と会いたいと思うときにはできるだけ迅速に会うように心がけています。それが私の夢を一歩でも進んでいくための「縁」をつなげていくものだと信じています。 さまざまな知恵を出すのは自分自身だけでは不足する専門的なことなど沢山の「縁」が 一つ一つ解決してくれます。 皆さんの中に眠っている知恵を「縁」というつながりで出し合いませんか そしたら今後の我々が向かおうとしている道が見えてくるかもしれません。
保存活動 世界遺産条約が生まれたのは、地球上に存在するさまざまな文化遺産、自然遺産を、ある特定の国や民族のものとしてだけでなく、世界の全ての人にとってかけがえのない宝物として、保護していこうという考え方 軍艦島と地域活性化 何人人を集めれば気が済むのか?・・・一時は市内での開催も考えた・ 産業遺構ということでさまざまな地域でがんばっている仲間がいます 先日北海道でのフォーラムのチラシをいただいて驚いたのは 炭鉱遺産は・・・ごみか? 宝か?という見出しです 皆さんどう思われますか・・・
私たちは地域の財産として保存し活用することが望ましいと考えます。
北海道と並ぶ旧産炭地である九州に残った炭鉱遺構を生かすことは 西日本新聞で書かれていましたが 「誇れる地域の遺産」としての視点が生まれるということです つまりこれは炭鉱や軍艦島だけにとらわれずとも地域の中での 誇れるものを作り上げることの視点を生むことだと思います
また軍艦島の保存は放置されたままの日本の今までの産業遺構にも 光を当てることになると思いますし地域おこしの起爆剤になると考えます。
軍艦島の崩壊を食い止めることは容易ではありませんが 「地域の財産」として皆さんの「縁」となるお知恵を貸してください。
今後の課題 長崎市、及び県においても観光資源としてこのしまがクローズアップされている点では 喜ばしいことだが・・ まだ保存の域に達していない・・・お金がかかる・・ しかしまた台風が来てこの島を壊してしまえばそれで終わり 観光資源にもならない・・・短期的な構想でなくこれを近代産業の遺産として 保存し語り継いでいく観光行政を願いたい・・・
軍艦島などの産業遺産をそれぞれの方々がどういう認識で評価し定義するかは さまざまであろうが、我々人間とってのこういった近代史の中で今「現在」を 作り上げてきた存在であることはまぎれもないことである。 歴史の中に登場しない名もない人々が作り上げてきた文化や物をただ無用の物として 目をそむけるのかそれとも過去の人々の知恵と文化を我々は継承し「現在」に 向き合って活用するのかが問われている。 産業遺産は我々にとって何なのか? 博物館にあるものが遺産なのか? 産業遺産は廃墟なのかもしくは我々の財産なのか? それを導き出すには多くの時間と考察が必要であろうが 今それぞれが考えなければならないことは生かし生かされている今の私たちの 今日を築き上げてきた人がいたという事実でありその近代の歴史を後世に継承していくのは今に生きている我々のほかに誰もいないことも事実であろう。
◆参考文献「軍艦島実測調査資料集」 東京電機大学出版より 軍艦島から始まる海の路 「青空博物研修圏」を創ろう 九州大学名誉教授 森 祐行 棄てられた島 長崎市街を抜けて国道449号線を南に向い、三和町から野母崎町に入ると、右手一杯に海が広がる。海上に軍艦島が浮かんでいる。正式の名を端島という。かつては、石炭を掘り出すために5千人からの人々が住んでいたが、今は人っ子一人いない無人島である。 人々が去って約30年、今、廃墟が人々を引きつけている。軍艦島に想を得た音楽家、画家、映像作家もいる。この夏、野母崎町で開催された「軍艦島を世界遺産にする会」のフォーラムには100人を越える人々が集まった。新聞は、「会の代表が『軍艦島は日本の近代史をつくり上げてきた産業遺産。そのことを語り継いでいかなければならない』と挨拶し、パネル討論では『島の住宅は建築史的にも重要な様式』『高島などの炭鉱が今の日本をつくりあげた』などと活発な議論がなされた」と報じている。 戦いすんで日が暮れて 日本の歴史を見るとき、わが国の近代化に貢献した石炭産業の役割を忘れてはならない。長崎市港外の島、高島にあった民営の高島炭礦と福岡県大牟田市にあった官営の三池炭鉱がそれぞれ三菱財閥と三井財閥の、ひいては日本の資本蓄積の基盤を作ることになった。明治維新以後、日本は近代化と反植民地化の手段として外貨獲得、富国強兵に力を注いだ。その行き着いた先が太平洋戦争であり、そして敗戦であった。 太平洋戦争によって産業基盤が壊滅的な打撃を受けた。敗戦後、石炭産業は経済復興の重要な担い手として石炭の増産に力を尽くし、地域の発展に尽くした。しかし、国内炭の価格が輸入炭や石油の価格より高くなるにつれ、かつては産業のコメともてはやされた国内炭は経済成長を阻む「お荷物」扱いになってきた。そして、平成14年(2002年)1月30日、北海道釧路市の太平洋炭砿が閉山した。この日をもって、平成13年(2001年)11月29日に閉山した長崎県西彼杵郡外海町の松島炭鉱とともに、日本における石炭生産の幕が閉じられた 太平洋戦争の敗戦後、人々は経済復興に情熱を傾けた。そして経済復興は見事に果された。しかし経済成長と共に高騰を続けていた平均株価は平成元年(1989年)12月29日を最高値にして翌年1月4日から下落を始め、バブル経済の崩壊が始まった。いま、わが国の倒産企業が外国資本に買収されている。今また、経済戦争という第二の敗戦から立ち直らねばならない時を迎えている。 人が歴史をつくり、歴史が人をつくる 経済はあくまでも手段であって目的ではない。人々は経済を復興して何を求めようとしたのであろうか。もう一度、武力戦争に敗れた昭和20年(1945年)当時を思い起してみよう。日本を武力国家から文化国家に立て直そうとした人々がいたことを。民衆にパンを、人はパンのみでは生きられない、この二つのスローガンが叫ばれた時代があったことを。武力と経済、共に手段であるべきものが、いつのまにか目的となってしまい、戦争という形で人々に苦しみを与えてしまった。今こそ、文化国家建設のために人生の経験者たちは過去を語るべきである。 産業は時代と共に移り変わる。だが、新しい産業も古い産業の技術を土台にして新しい技術を産み出していく。炭鉱の技術も形を変えながら、人から人へと伝わり、今も生き続けている。では、これらの技術を産み、育てていく推進力は何であろうか?それは意欲と情熱だと思う。人は社会に規定されるという。しかし、社会は人がつくったものである。人が社会を変えていく。社会を変えようとする、その意欲と情熱が技術を産み、育てる。 ならば、意欲と情熱はどうして育まれるのだろうか。人々の意欲と情熱は歴史の所産である、と私は言いたい。なぜか。理由は簡単である。私がここに存在するのは両親がいたからであり、両親にはそのまた両親がいたからである。物理的な肉体の存在だけでなく、技術や知識や価値観を含めた精神的な存在も先人が作った歴史の延長線上に存在している。あえて狼に育てられた“狼人間”の例を出すまでもないであろう。「現在」は「過去」の延長線上にある。過去を知ることによって現在を知り、より良き明日を切り拓くことが出来る。日本の進路を見出すには歴史を知ることから始まる。それでは遅過ぎるとの非難がある事は当然である。だが、先進国という学ぶべき国があった過去とは異なり、これからの日本にはそれがない。やはり、ヨーロッパの国々がそうであるように、遅いかもしれないが、歴史の中から学ぶしかない。 青空博物館 長崎県には石炭を掘り出した島々がある。島には、我が国の歴史において重要な役割を果した石炭産業の遺跡がある。先人の残したものを活かすのか。殺すのか。今、私たちの英知が問われている。豊かな自然と産業遺跡を未来に活かすことは私達の責務である。 青い海と青い空の中に白い軍艦島(端島)が浮かんでいる。ローマの遺跡や吉野ヶ里遺跡のように、炭鉱の遺跡も青空の下、その地にあってこそ、その価値が現れる。人々は、その地に立ってこそ、その遺跡を実感できる。 人は具体的な物を見て、触って、話しを聞いて、その物の価値や背景を実感できる。博物館といえば立派な建物の中に高価な品物が陳列されている場景が浮かんでくるが、その必要はない。品物を前にして、その品物について語りかける人がいて、その話しを聞く人がいる。そこが博物館である。誰にでも思い出の品はある。その品はその人にとっての宝である。金銭には代えられない宝である。昔、語り部という人々がいた。思い出の品を前にすれば、誰もが語り部になれる。 ある物を前にして人と人が語り合えば、互いに何かを感じ合うことができる。職業としての研修には達成目標と基準が必要であるが、人生のための研修には客観的な目標や基準は不要になる。博物館の機能に、職業上の技術や知識の向上に直接、役立つ研修があるのは当然であるが、私は敢えて、職業と直接には結びつかない研修の場としての博物館を提案する。
端島総合年表
長崎湾の近くに端島という、小さな廃墟の島がある。私たちのメンバーがその島の話を聞き、インターネット、電子メール、及び電話連絡による調査の後、その島へ行くことになった。長崎港近辺で釣り人を案内している船頭に頼めば、端島の周囲を廻ってくれることがある。海岸に降り立ちたければ、船頭と奥さんに、理由を話して説得しなければいけない。 遠くから見ると、端島は直角と直線ばかりで形作られているように見える。途切れ目のない灰色の表面が、巨大コンテナ船の船体のように、海との境界をつくり、その上には斑紋のある四角い灰色の建築物が重なり合っている。これは細長い(400m x 100m)島で、昔からその名を『軍艦島』として知られている。 我々は、近隣の緑に覆われた島々とは対照的な、この荒涼とした角ばった島に引き込まれていった。この小さな世界を周航してみると、両端の開けた平らな部分、片側では一箇所が下がっている部分を除いて、全島にびっしり背の高いコンクリートの建物が建っており、細い道で分断されているということがわかる。建物のデザインは様々であるが、それらが密集して、一つにつながった建造物のように見える。灰色の外観は島全体を取り囲んでいる岸壁で、コンクリートの高壁が島への出入りを阻んでいる。 我々はこの地を一日かけて探検することにした。船頭が水面に現れたコンクリートの階段通路に向かって進み、どっしりとしたステンレスの扉に続く壁の割れ目をよじ登った。船頭はこの岩棚に船を寄せ、我々は船の舳からよじ登ってこのコンクリートの船体の冷たい塊に足を踏み入れたのである。
端島は、近隣の島のような魚釣りのための島ではない。船を係留する静かな入り江もなければ、家族や個人が住んでいることを思わせる集落もない。ここは、人々を歓迎する解放的な場所ではない。かといって、長崎への海洋通路を監視している軍事要砦でもない。Alcatrazのように、牢獄島でもない。ここは、捨てられた町なのである。今は抜け殻となったが、端島は、かつて三菱が築き、管理・所有し、経営した産業の町であった。もともと石炭が露出していた島―というよりは岩―の地下には、海中から延びた上質の石炭の地層が横たわっていた。島全体が、そして数千の人口が、全て炭鉱業に関与していた。海底鉱山への地上の出入り口となったその島には、鉱夫やその家族、炭鉱を経営する企業の幹部、住民の健康管理をする医者や看護婦、全ての子供のための学校教師、床屋、店の経営者、銭湯の従業員の生活空間となった。この島は、ゆりかごから墓場までの小さな完全社会であった。炭鉱事業は約百年間、非常に効率よく続いた。端島には石炭を洗い、貯蔵する施設があり、貨物を船積みするのに便利な場所でもあった。船は鉱山から100mもの石炭を積載し、八幡など、こちらも海沿いの至便なところに位置している製鉄所に直接輸送された。 八幡製鉄所は、今ではその規模が十分の一に縮小され、石炭ではなく石油で操業されている。昔の製鉄所の建物はほとんど取り壊され、他のものに置き換えられている。例えばスペースワールド、これは合衆国のスペースシャトルの、実物大の模型が置かれ、宇宙飛行士であるネズミのマスコットやら、テーマソングまで作られた、テーマパークだ。これも八幡の再開発のひとつであり、住民たちは未来に期待している。 炭鉱の町端島の住民たちには、そのような幸運はなかった。島全体は、一つの事業のためだけに効率よく設計されていたのである。炭鉱業に関係のない活動、つまり映画館や食料品店というものは、その一つの目的を支える組織の一部にしか過ぎなかったのである。土地が足りなくなるにつれて、海岸線が埋め立てられ、面積は広くなった。しかし炭鉱業以外の大事業のための土地は余っていなかった。誰も6畳の間から画期的な仕事を始めた者はいなかった。その上、この離島への出入りは難しく、会社が規制を敷いていた。見知らぬ人がぶらっと行って二、三日島で過ごす、などということはできなかった。日本の政治経済が、これからのエネルギーを石油輸入に頼ると決定してから、地方の炭鉱は衰退し、炭鉱社会の意味と機能が消えていったのである。これには順応できず、都市化復興もできず、端島を再開発するという試みは見られなかった。1974年1月、炭鉱の完全閉山の決定が下された。それから3ヶ月の間に、人口は3000人からゼロになったのである。炭鉱のたて坑はふさがれ、設備は解体撤去され、労働者と家族は引っ越していった。その他の、さまざまな建物、学校、病院、先生たちの住居、炭鉱夫たちの銭湯、あらゆる職種の人たちが住んでいたアパート、そしてこれらの住民たちが(持ち出せる荷物に制限があったため)持ち出せなかったものは全て、島に放置された。そのまま完全に放棄された。ゆっくりと海の藻屑となるのを待っている。ここで理解しがたいのは、建物は耐久性を持って建てられたのだ。ここは厳しい環境であるにもかかわらず、30年経った後も、かなり原形をとどめている。しかしこの現存物を見ることで、最後の最後まで、人々が炭鉱の存続を期待していただろうことを計り知るのである。 人々は、長崎湾沖に浮かんだ、高層建築物の塊という、いわば巨大タンカーのデッキの上だけの生活を送っていた。従業員たちは、身分によって分類され、住居も分けられていた。炭鉱長だけは島で唯一、和風の木造建築の一軒屋に住み、その家は島の高台、上水道の給水タンク下にあった。それよりは下手の地区、鉱脈の露出部の上方には、幹部たちのための広い集合住宅があった。おそらくこの人たちやその家族を仕事に集中させるためであろうか、家の大きな窓は全て炭鉱施設の方を向いており、そこから石炭の山と炭鉱設備の幾何学的な景色と、後ろにはロマンチックな海の景色が望めたのである。この特権住宅の下には、その他の住民たちの居住区があり、こちらは社会的地位や会社の水準により、広さも快適さもピンからキリまでであった。医者と教育者が最上層階級、最も下は独身の鉱夫であった。階級による特権とは、眺めがよいということのほか、プライバシーの配慮、涼しい海風の入る方角、などがあった。最も下の階級では、小さな部屋を何人かでシェアして、食事も風呂も他人と一緒という状態であった。この階級制度は子供たちの施設までには影響しなかったようである。島には一つの保育園と一つの学校しかなかった。実際、保育園には高層住宅の最上階と屋上が使われ、学校は独立した建物で教室の前に運動用の広場もあった。子供たちは皆、ちゃんと平等に扱われたようであった。誰でも出入りできる屋上や路地が子供たちの遊び場所であった。
私は、活気があった頃の端島の様子を想像してみる。どんな音が聞こえ、どんな匂いがしていたのか。そこでは、一人になる場所を見つけることなど、難しかったに違いない。今では、この島を歩いていると、まるで地球最後の生存者のような気になってしまう。島を訪れている人たちに出会うことも時にはあるが、たいていは、あたかも、形は残っているものの命が失われた、まるで珊瑚礁の死骸のような、ひと気のない住宅街の小道を一人っきりでぶらついているのである。ここには、輪廻感がある。古代に消滅した社会からエネルギーを採掘するために作られた場所、その場所自体が今や消滅している。この島は太古の沼の遺跡に錨をおろした、船の化石である。全てが衰退と崩落の痕跡を残している。波は岸壁の下方部を削り取り、執拗な侵食によって要砦が破壊されようとしている。人々が島を去ってから、波によって岸壁に大きな穴が開き、壁内部に詰めてあった軟弱な部分が侵食され始めた。学校の校舎は、片側で下のほうが侵食で壊され、柱の土台が丸見えの状態になっている。今や崩壊寸前の危機に震えている。関係者たちがその部分の壁を原物より強いものに作り替えたが、校舎の土台部分は丸見え状態のまま残っている。おそらく、内部構造の強度より周りを完全に修復する方を重視したのであろう。こういった建物は、鉄とコンクリートでできているにもかかわらず、永久的なものではなく、単なる採掘現場におけるテントにしか過ぎないのである。雨の一粒一粒がセメントをほんの少しずつ溶かし、内部の金属部分まで錆で腐食させる。この破壊による粉塵は微風によって運ばれていく。この微かな仕業が積み重なって、滑らかだったコンクリートの表面を穴だらけにし、内部の補強材を腐食性のある潮風にさらしてしまう。これら外壁の下には、まるで採石所のように、地面に破片が散らばっているのである。島は地震のあとのような状態にある。 建物の環境は放置されるのではなく、維持管理されている方が、我々にとっても嬉しいし、気持ちがよい。しかしこの場所の日々の管理は30年前に突然打ち切られたのである。我々は、様々な破片物の散らばった廊下を歩いた。これらの建物のハードな部分の構造はほとんど無傷に見えるが、ソフトの部分はくずれ始めている。クレーターの間を我々は歩みを速める。我々は、月面を歩くアームストロング船長である。床板がきしみ、突然崩れて15センチほどの隙間から硬いコンクリートの土台がむき出しになる。アパートの中に入ることは、きわめて慎重さを要するが、入らずにはいられない。以前に訪問者があったことの証しである落書きを見つけるが、同時に、妙な、不自然な家庭生活の一場面があったりする。テーブルと椅子がこまごまとしたものと共に置いてあり、子供たちがお茶会を開いていたのを思い起こすように据え付けてある。その秩序のよさは、もともとあったにしては本当らしくなく、埃もしていない。どこもかしこも時の流れが表れている。風に揺れている金属製のフックは、それが垂れ下がっているコンクリートの表面に当たって、弓形の傷をつけている。今やこのフックにとっては、洗濯竿をつるすとかその他考えられることが目的ではなく、セメントが錆びてボロボロになるまで傷をつけることこそが、新しい目的となった。コンクリートにできた溝が、風と踊るフックの証しである。 岸壁の上部には、腐食した木製の柱や、島を一周していた鉄道の枕木の端切れなどが穴をふさいでいる。この岸壁は、最高の眺めのある、島随一の散歩道であり、誰にでもデッキからの夕陽を見られる遊歩道である。友人と歩き回っているうちに、週末に一人で来た釣り人に出会う。いたるところで雨水が溜まって、不活発な蚊の幼虫の温床になっている。簡単に殺せる、成虫は致命的な平手打ちから逃げることを忘れてしまっている。この蚊たちが果たして最近の移住者なのか、もともとの住民の子孫なのかは、知る由もない。 端島において、我々は、自分の死後がどうなるかを見た気がする。我々は海を渡り、大惨事の過ぎ去った時間、我々みんなが待ち望んでいた時間に、タイムスリップする。夕方になると船頭が我々を島から帰してくれる。ディーゼルの唸り声とポンポン鳴る音が静寂を破り、我々は島から脱出できることにほっと笑みを浮かべる。 「今まで島にいたのかい?」と船頭の息子が尋ねる。彼は最近、留学先のカリフォルニアから帰国したばかりで、目下失業中。「まさか。」と彼は言う。彼は幽霊がどうのこうのと言ったように思うが、記憶が定かではない。話を脚色してしまうだろう。端島はただの、無人化した小島にすぎない。その生い立ちだけで魅力的であり、効果を高めるための幽霊話は必要としない。この島は過去の文化の衰退を、そして我々自身の死をも連想させる。皮肉ではなく、端島は気の休まる、穏やかな場所だと私には思えた。 廃墟となってしまったこの島は、次第に朽ち果ててのちに、このような場所が消えつつあることを人々に知らしめるのである。島は、廃墟の町が歴史的な遺跡へと置き換えられる魔法を、待っている。これをどうするかについて、以前の住民の間で、非公式な話し合いは行われている。明らかに女性に多いが、この島を安らかに海に沈めたいと言う人たちもいる。他には、私の友人のように、この島を何らかの形で、産業史上の世界遺産として認めてほしいと言う人たちもいる。どちらの運命が降り注ぐにせよ、その前にこの島を見ることができて、私は嬉しく思う。小額の寄付でも考慮していただければ、窓や裂け目を密閉するなど、建物を保存するための最小限の措置が取れるのである。驚くことに、企業は将来のことを考えず、今や人がよく訪れる博物館島になるかもしれないものに対して、投資を怠ったのである。この足で歩き回って腐食の状態を目の当たりにした今、島が安全な博物館になる可能性が、私には想像できない。
システムの崩壊 長崎県立シーボルト大学 情報メディア学科 藤沢 等教授 誰が言い出したのか長崎県端島には「軍艦島」という俗名がついている。なるほど軍艦土佐に似ているし、何よりも大日本帝国の力の象徴でもあったろう。日本のエネルギー政策の急先鋒として石炭を生産し続け、生産の拡大に伴って坑道は広がり人口は増え続けた。人口増加にしたがって島には高層建築が立てられ、何度かの埋め立てで島はパッチワーク ![]() しかし、現在は・・・一言で言えば「ぐちゃぐちゃ」。さながら無秩序に建てられた継ぎ接ぎ住宅は海上のラビリンス(迷宮)である。それが廃坑30余年を経て混沌とした廃墟となり、人々が去った後には家具や建具が散乱し、鉄部は錆落ち、床が抜け、天井が落ちている。その光景は、もう、絶句し、目を覆っても余りある。死と恐怖と腐敗の巨大な塊りである。 軍艦島の崩壊はこのところ急激にそのスピードを速めているという。心ない侵入者による これもまた、エントロピーなのか。エントロピーの法則とは熱力学の第二法則で、全てのものは無秩序に向かって進行する、というものである。この法則は情報量の式の逆数であり、全てのものは情報を失って無に帰すると言い換えても差し支えない。差し詰め軍艦島は壮大なエントロピーの実験場というところか・・。 ひとは「人が住まなくなった家はす 「死」なのだ! 滅び行くものに美などない。醜く腐敗した、悪臭がただよう妖しさだけである。その妖しさを美と勘違いしてはならない。その怪しさに郷愁を抱いてはならない。軍艦島は訪れる者に「死」の意味を問いかけているのだ。そう、廃墟が語るものは「死」の向う側にある「生」の意味そのものなのである。 機械に代表される「死んだシステム」とは、目的が一つであり、完璧を要求され、出来上がった時が最も完全であり、時間がたつにつれて磨耗し破損し崩壊してゆく。それに対して「生きたシステム」とは、目的が複数あり、不完全で、時間がたつにつれ成長し、子孫を増やし、進化する。生きたシステムには部分と全体があり、相互に依存しあっている。にもかかわらず、部分の目的と全体の目的は相互に矛盾し合うのだ。互いに離れられないのに葛藤する。だから不完全だし、だから成長の余地があるのだ。 「島から人が消えたとき軍艦島は死んだのだ」というのは簡単である。しかし、その答えは崩壊のスピードを説明するものではない。かつて軍艦島が生きていたとき、それは 生きる意味を見失ったのは人間だけではない。軍艦島に取り残された体育館も手術台もテレビも高層住宅も生きる意味を見出せなくなったのだ。それらに心はない。しかし、それら自身の意味がなくなったとき、それらは死に、ただ一つ、崩壊だけが目的となってしまった。生きていたころの日々が華やかであればあるほど、その死は醜い。 生物だけが生き物なのではない。人工物 |
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