●概要 「軍艦島」は正確には長崎県西彼杵郡高島町端島の俗称です。 戦艦「土佐」に島影が似ていることから名付けられたといいます。 場所は、東経129度45分、北緯32度39分に位置し、 野母半島の北西、長崎港から約18キロの海上にあります。 大きさは、南北約480m、東西約160m、面積は約6.3ha、 周囲約1.2km、海抜47.7mという小さな島です。 1810年頃石炭が発見され、佐賀藩が小規模の採炭を行います。 明治23年、三菱が島全体と鉱区の権利を買い取り 本格的海底炭坑として、操業が開始されます。 島直下及び、周辺の海底から良質の強粘結炭を採掘し、 主として八幡製鉄所に製鉄用原料炭を供給する島として、 国家の手厚い保護を受けてきました。 明治期には中央の岩盤上に3~4階建ての木造住宅が数棟あり、 東部平坦地には作業場、西部平坦地には住宅及び公共施設、 小中学校(7階建)、共同販売所、映画館、料理屋、娯楽場、病院などがありました。 それらが林立する姿を大正12年に当時の長崎日日新聞が 初めて「軍艦島」という呼び名で世に紹介します。 そして、日本初の鉄筋コンクリート造高層集合住宅である30号棟が 大正5年に建築され、日本近代建築史上特筆に値する 重要な文化的遺構であると言われています。 しかし、国のエネルギー転換政策の推進に伴い、 結局1970年の端島沖開発中止により会社は鉱命終了期を発表し、 1972年に組合側を妥結して、同年12月に採炭を終了、 1974年1月15日正式に閉山したのです。此を受け、 同年4月20日をもって野母商船定期便が廃止、島民は皆島を去ったのです。 操業当時は、長崎港から高島を経由して1時間20分の定期船が 2隻運航していましたが、もちろん今では定期便はありません。 最盛期には5,200人の人口で当時の東京人口密度の9倍とも言われましたが 閉山時には人口は2200人でした。
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