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端島総合年表

西 暦 年号月日 主要事項
1810 文化7年 端島で露出炭が発見される。端島は当時、草木も無い水成岩の瀬であった。漁民が石炭を『磯掘り』していたとの事だが、発見者は不明である。
1870 明治3年 天草の人、小山秀氏が、端島砿を創業。
岩崎弥太郎、九十九商会設立。
1882 明治15年 旧鍋島藩深堀領主、鍋島孫六郎氏の所有となる。
1887 明治20年5月26日 『夕顔丸』が進水。日本最初の鋼鉄船(210トン)として、三菱長崎造船所で建造された。建造費、33,550円。
1887 明治20年 鍋島氏が端島第一堅坑を開坑。この時、開坑(44メートル)は、明治30年の坑内火災により閉鎖された。当時の雇人日給25~50銭程であった。
1890 明治23年8月4日 三菱社が端島炭坑の経営にあたる。三菱が鍋島孫六郎氏より10万円で買収し、高島炭坑の支砿として24年より採炭を開始。高島砿を陵駕する出炭量を上げ、27年に独立砿となったが29年に再び支砿に戻った。
1891 明治24年 蒸溜水機を設置し、各戸に飲料水配給。同時に製塩事業も行なわれた。明治41年頃には、高島に製塩工場2箇所、蒸発池3箇所、端島には製塩工場1箇所、蒸発池9箇所、設置されていた。大正15年当時、端島には蒸発池7箇所があり、1日、約340石の蒸溜水が精製された。
1893 明治26年 私立(社立)尋常小学校を設立。
1895 明治28年 端島旧第二堅坑が開坑。深さ168メートルまで開さくし、昭和9年改修が完了。追掘616メートルに及んだ。
1896 明治29年 端島旧第三堅坑開坑。明治27年に着手し、深さ161メートルまで開さくした。昭和10年まで使用された。
1897 明治30年4月13日 端島砿で坑夫のストライキが起る。漏水で坑内作業が危険なため、坑夫700人が入坑を拒否し、警官40人が出動し、24日には落着した。
蒸汽管の過熱により、上八尺層火災発生。採炭中止。
端島第1回埋め立てが行なわれる。
高島、端島の納屋制度廃止。
1899 明治32年 端島第2埋め立てが行なわれる。
1900 明治33年 当時の端島の戸数93戸。
端島第3埋め立てが行なわれる。
1901 明治34年 端島第4埋め立てが行なわれる。
1905 明治38年 台風により端島南部、西部が破壊され、社宅38戸が破壊され、社宅38戸が流出した。
1907 明治40年 高島―端島間に海底電線が完成。
端島第5回埋め立てが行なわれる。
1912 明治45年 キャペル扇風機を導入。
1916 大正5年12月 わが国最初の鉄筋コンクリート造アパート、30号(7階建)が完成。
1918 大正7年 三菱鉱業株式会社設立。
鉱員アパート16~18号(鉄筋コンクリート造、16、17号9階建、18号6階建)、通称『日給社宅』が完成した。その後、大正11年に19、20号が竣工した。(6階建)昭和7年には、18、19号が3階分増築され現在の形(16~19号9階建、20号6階建)になった。
高島二子交流発電所海底ケーブルによる端島坑内への電力輸送を実施。
1919 大正8年9月5日 端島砿で賃金争議が起る。
1919 大正8年 端島第4堅坑開さくに着手。
8号職員社宅(鉄筋コンクリート+木造混構造3階建)、建設。
1921 大正10年 端島が軍艦『土佐』に似ているところから、長崎日日新聞が『軍艦島』として一般に紹介した。
泉福寺(木造2階建)、建設。
1922 大正11年 上陸桟橋(クレーン式)が完成。
1923 大正12年 端島第4堅坑完成。上部採掘に着手。
12号職員社宅(鉄筋コンクリート+木造混構造3階建)、建設。
1925 大正14年5月21日 端島第4堅坑開坑。大正8年に着手し、12年に堅坑完成。深さ353メートルまで開さくした。通常は排気用として、第2堅坑に支障がある場合はその代用として使用され第2坑と共に閉山時まで採掘された。
1925 大正14年 台風により端島南部、被害を受ける。
坑内でのキャップランプ使用開始。
1926 昭和元年 長壁式採炭法を試験実施。
1927 昭和2年 映画館『昭和館』(鉄骨レンガ造2階建)、落成開館。
1929 昭和4年1月5日 端島坑内水没事故発生。死者11名。
1930 昭和5年 端島第2堅坑掘下げ工事に着手。
台風で西海岸破壊される。
1931 昭和6年 『夕顔丸』、若松営業所より回送され、以后、高島砿業所の社船として、長崎―高島―端島間を運航した。
25号職員社宅(鉄筋コンクリート造5階建)、建設。
端島第6回埋め立て行なわれる。
1932 昭和7年 給水船、『三島丸』、進水。
これまでの馬による坑内運搬をエンドレス(ベルトコンベア)運搬に変わる。
1933 昭和8年 鉄骨製積込桟橋に改造。
女子の坑内労働禁止。
1934 昭和9年 端島第2堅坑掘下げ工事終わる。
端島小学校校舎(木造2階建)、完成。
1935 昭和10年3月27日 端島砿でガス爆発事故発生。死傷者の製塩事業廃止。
鉱員寮より出火、端島神社、及び社宅の一部類焼。
1936 昭和11年 6号職員合宿所(木造2階建)、建設。
端島神社再建。(現在の神社)
1937 昭和12年 端島第2堅坑完成。深部開発に着手。
20号社宅屋上に社立幼稚園設立。
1938 昭和13年 海底電信電話通信開通。
1939 昭和14年 朝鮮人労仂者が坑内夫として集団移住を開始。
エネルギー資源が統制され、石炭石油が配給制度となる。
56号職員社宅(鉄筋コンクリート造3階建)、建設。
1940 昭和15年 66号鉱員独身寮『啓明寮』(鉄筋コンクリート造4階建)、建設。
1941 昭和16年 端島砿、年間411,100トンの最高出炭記録。
14号職員社宅(鉄筋コンクリート造5階建、通称中央社宅)、建設。
1942 昭和17年 端島第2堅坑口で火災発生。
1943 昭和18年 坑内労仂時間制限令廃止。坑内勤務時間12~15時間となる。
端島第2堅坑ロープ切断事故発生。
1944 昭和19年 端島第2堅坑ヤグラ歪修正。
鉱員社宅65号(報国寮)、建設開始。1945(昭和20年)、北棟〔病院側〕が完成(鉄筋コンクリート7階建)。その后、1947(昭和22年)、3階分増築し9階建になり、1949(昭和24年)、中央棟が9階建で増築され、1958(昭和33年)、南棟が10階建として増築され現在のコの字形となった。
1945 昭和20年6月11日 石炭運搬船白寿丸(350トン)が、石炭積込中、午前11時16分頃、米潜水艦の魚雷を受け沈没。島が壊れるかと思われるような大爆発音で、当時の島民が恐怖と不安におののいた。幸い乗組員達は全員無事脱出、端島へ上陸出来た。
1945 昭和20年7月31日 午前11時55分頃、高島二子発電所が米空軍の空襲を受け、被害を蒙り高島はもとより端島への送電もマヒ状態となった。その為、坑内水の揚水が出来ず、8月12日には第4盤下迄水没した。8月から11月迄出炭ゼロ。ようやく12月13日から坑内復旧作業が始まり、12月の出炭は145トンを記録した。坑内水没で終戦を迎えた端島は、捕虜労務者、朝鮮人労務者達の送還業務が行なわれた。
1946 昭和21年2月11日 端島炭鉱労仂組合結成。組合員1,284人で結成され、初代理事長に、永田健次郎氏(当初は理事制)が就任した。
石炭、鉄鋼、化学肥料の傾斜生産方式を閣議決定。炭鉱向け特別物資の配給決まる。
NHKラジオ『炭鉱の夕べ』を毎週放送。
鉄柱カッペ導入。
1947 昭和22年 社宅入舎割当点数制度を実施。
公衆電話架設。
1948 昭和23年4月1日 炭鉱国家管理の3年間時限立法(臨時石炭鉱管理法)、施行。高島、端島両鉱区に分割認可。この年端島の人口、4,526人に急増。
1949 昭和24年3月5日 野母商船が、長崎―高島―端島―野母経由航路を就航。
1949 昭和24年2月14日 高島が都市計画法の適用により、人口集中地区に指定される。端島も昭和31年12月に人口集中地区に指定された。
高浜村立端島幼稚園が、泉福寺に開園。
1949 昭和24年 松竹映画『緑なき島』で、端島が全国に紹介された。
スキップ捲運転開始。
1950 昭和25年 高島端島沖海底調査開始。
三菱鉱業金属部門を分離。
2号職員社宅(鉄筋コンクリート造3階建)、建設。
砿長社宅(木造2階建)、建設。
67号砿員独身者合宿所(鉄筋コンクリート造4階建)、建設。
1951 昭和26年11月14日 端島砿の深部区域でガス突出事故発生。
コールカッター導入。
1952 昭和27年 端島プール完成。
1953 昭和28年5月 高浜村立端島保育所が完成。
65号アパート屋上に、面積338.25㎡の保育所が完成し、定員150人で開所した。30年4月に、面積87.12㎡を増築した。
22号棟(高浜村立役場端島支所)が完成。鉄筋コンクリート造5階建。1階、老人クラブ、2階、役場支所、3~5階、公務員住宅(役場支所職員)として建てられた。30年4月、高浜村より高島町に編入され、高島町役場端島支所となった。
7号棟(職員クラブハウス)が完成。木造2階建。
59、60、61号砿員アパートが完成。(鉄筋コンクリート造5階建)。
1954 昭和29年7月 高浜村端島港が高島港内に編入された。
1954 昭和29年8月28日 端島第1号ドルフィン桟橋が完成。
高波3メートルに耐える日本発のドルフィン式可動桟橋として完成した。
高島、端島海底水道布設工事、着工。
21号砿員アパート(鉄筋コンクリート造5階建、1階警察派出所、2~5階砿員社宅)建設。
1955 昭和30年4月1日 対岸の高浜村より高島町に編入。高島町端島となる。
1955 昭和30年 その結果、高島町の面積1.24k㎡(高島1.14k㎡、端島0.1k㎡)、人口16,904人(高島12,134人、端島4,770人)となった。
48号砿員アパート建設(鉄筋コンクリート造5階建)。
1956 昭和31年8月16日 台風9号により、端島第1号ドルフィン桟橋流出、南部護岸、工場が破壊された。
1956 昭和31年9月9日 台風12号により、端島プール破壊。
端島砿労仂組合ストに対し、会社ロックアウト。
1957 昭和32年4月1日 端島小学校木造校舎当直室から、4月1日早朝出火し、木造旧校舎および砿業所端島病院を全焼し、建設中の鉄筋コンクリート6階建の新校舎一部と隣接する65号アパートの一部を類焼、死者1人を出す大火災となった。
1957 昭和32年10月1日 高島、端島海底水道が完成。水源に恵まれない高島端島にとって、人口増加に伴い水の需要が年を追って増大した。これに対処する為、31年5月に、対岸の三和町為石、土井ノ首、川原を水源とする取水工事に着工し、32年10月に総事業費3億1千万円(このうち起債2億1千万円)で、岳路中継所から高島へ5キロ、端島へ65キロの各2本の海底水道送水管で送られる上水道が完成し、32年10月13日に1日あたり、3,500トン(端島は1日あたり1,350トン)の送水がなされ、4,252世帯に給水された。これにより、高島端島全島民の長年の願いであった飲料水問題が解消された。
31号砿員アパート建設。(鉄筋コンクリート造6階建、砿員住宅+郵便局+地下共同浴場)
1958 昭和33年1月17日 端島小中学校校舎が完成。
1958 昭和33年 総事業費96,640,000円(このうち国庫17,998,000円、起債29,100,000円)で、鉄筋コンクリート造6階建、面積4,305㎡の小学校22教室、中学校8教室の校舎を建設した。36年5月に、中学校5教室(この時点で現在の7階建)を、増築した。
1958 昭和33年7月 端島南部に町立端島プールが完成。12号台風の災害復旧工事として、25メートルプール6コース一基が完成した。
1958 昭和33年10月31日 端島第2ドルフィン桟橋落成。(波高7メートルに耐える)砿業所端島病院復旧落成。鉄筋コンクリート造4階建の病院本館、及び2階建の隔離病棟が完成した。
1958 昭和33年10月31日 この年、端島で電気釜、冷蔵庫、テレビなどが流行。
1959 昭和34年9月17日 台風14号により、端島第2ドルフィン桟橋流出。石炭積込桟橋も流出した。ほか、端島南部護岸も数箇所決壊した。
3号職員アパートが完成。(鉄筋コンクリート造4階建)初めて各戸に内風呂が設置された。
この年の端島人口、5,259人。
1960 昭和35年 端島沖探炭工事に着手。
1961 昭和36年12月 野母商船のつや丸と、せい丸が就航。長崎―香焼―高島―端島航路に就航した。46年の香焼埋立により香焼経由は廃止した。
51号砿員アパート完成。(鉄筋コンクリート造8階建)
上層開発工事疎水卸を中止。水没させた。
1962 昭和37年3月17日 端島第3ドルフィン桟橋落成。端島護岸より12メートル沖の海底を3メートル掘下げ、長さ25メートル、幅12メートル、海底からの高さ15メートルの人工島をつくり、これに船舶を接岸させるという新方式のものになった。
1962 昭和37年3月31日 社船『夕顔丸』が廃船。夕顔丸は日本で最初に出来た鉄船であった。三菱長崎造船所で明治20年5月26日に竣工された鉄船で、当時の建造費33,550円であった。総トン数210トン。長崎―高島―端島間を永きにわたり、いとしき便利を乗せる船として大いに活躍し、高島端島島民の足として親しまれたが寄る年波には勝てず、37年3月31日をもって社船としての大役を果たし、75年の航跡を残し廃船となった。
1962 昭和37年4月1日 中の島公園が完成。高島沖の中の島に、緑の少ない端島の人々のために憩いの場として、総事業費9,994,000円で、35年11月に着工し、面積4.2ha、遊歩道、展望所、広場、ブランコ、すべり台、船着場等を設置、完成した。
1963 昭和38年 端島で緑化運動の兆しが見え始める。園芸同好の有志、各地区子供会等、高島香焼から土を運び、屋上空地を利用して花壇、畑、温室等を造った。
1964 昭和39年6月 町立端島公民館が落成。総事業費1,759万円(このうち国庫100万円)で、鉄筋コンクリート造3階建、面積478.5㎡の公民館を建設した。
1964 昭和39年8月17日 端島砿でガス爆発事故発生。深部区域自然発火の消火作業中に、ガス爆発が起り、多くの死傷者が出た。消化のため、深部を水没させ、約1年間採炭休止。砿員1,056人から524人へと大幅な減員を行なった。転出者は砿員、職員家族下請業者その他を含め、約2,000人が端島を去った。
1965 昭和40年2月10日 三ツ瀬新坑4枚層に着炭。昨年のガス爆発事故による消化の為、端島砿のメイン採炭区域であった深部をやむなく水没させ、採炭不可能状態が約1年続き苦しい時期を端島は迎えていた。かわる新採炭区域を三ツ瀬区域に切り換え、39年9月から三ツ瀬開発工事が開始。39年9月~40年1月末迄、炭層(石炭がある層)にたどりつくための採掘が毎日続けられたが、当然、黒い石炭は1トンも上がってこなくて、出るのはボタ、岩石ばかりであった。毎日坑内から上がってくるボタで、端島西海岸の護岸沿いに人工ボタ浜が出来あがる始末であった。
1965 昭和40年2月10日 炭砿に仂く者にとって出炭がない程みじめで寂しいものはない。この様な暗い時期が約1年続いたが、全従業員は新生端島砿のために頑張り抜いた。その努力の結果、40年2月10日、三ツ瀬4枚層に着炭し、島は長かった冬眠から覚める如く活気づいた。5月4日、経営協議会に三ツ瀬新坑操業体制の提案が組合に行なわれ、近代的機械化炭砿へ飛躍するという大前提に沿って8月12日、労使双方の交渉がまとまり、9月13日より本格的操業に入った。12月5日には、高島二子堅坑完成及び新生端島の発足を記念して精出しに祝賀式典が催された。
1965 昭和40年12月 端島砿開坑以来の月産35,000トン出炭を記録。40年下期、新三ツ瀬区域移行后、今までの採炭方式を変え、鉄柱、カッペ及びドラムカッター等による新方式を取り入れた。始めは新機械等の不慣れな点や、炭層傾斜の変化等もあったが、坑内員各人のたゆまぬ努力という強力な支援によって、端島砿開坑以来の月産35,000トンという快記録が、40年12月樹立された。
1966 昭和41年 空気充てん機導入。石炭汽缶を重油汽缶に切り替えた。
26号下請従業員社宅建設。(鉄骨プレハブ2階建)
1967 昭和42年 端島教職員住宅完成。総事業費3,264万円で鉄筋コンクリート造4階建12戸収容の教職員住宅を建設した。
1968 昭和43年 端島砿、急傾斜区域を偽傾斜面払採炭方式で開始。
1969 昭和44年10月1日 三菱高島炭砿株式会社誕生。新石炭対策に呼応するため、三菱鉱業は最善の方策として、石炭部門を完全に独立させる事に決定。44年5月に臨時中央経協を開き、九州、北海道地区別にそれぞれ独立した新会社として発足させる事にした。結果、高島二子砿、端島砿、鯰田砿(福岡)の3砿を統括し、岩間社長を中心とする三菱高島炭砿株式会社として新発足した。3砿の概要を述べると、43年10月1日現在で、高島二子砿砿員数2,718人、職員数337人、出炭高1,161,000トン。端島砿砿員数674人、職員数87人、出炭高319,300トン。鯰田砿砿員数56人、職員数26人、出炭高18,089トン。
1970 昭和45年3月31日 端島小中学校体育館及格技室と給食室が完成。総事業費46,958,000(このうち国庫11,326,000円、起債1,110万円)で、鉄骨及鉄筋コンクリート造2階建、面積385㎡の体育館を建設した。1階は格技室と給食室、2階は体育館となっている。45年5月より、給食業務を高島町学校給食公社に委託した。
1970 昭和45年6月19日 木造組住宅(学校横)が全焼。死者2名を出す火災となった。
1970 昭和45年10月1日 第11回国勢調査実施。高島の人口14,518人、世帯数4,021世帯。端島の人口2,910人、世帯数871世帯。
三菱創業百年記念大運動会が開かれた。45年は三菱が創業されて丁度百年にあたる。
1970 昭和45年 それを記念した大運動会が催された。秋晴れの日曜日、学校グラウンドで全島民が集い楽しい1日を過ごした。
端島沖探炭工事中止を公表。
1972 昭和47年4月23日 47年度永年勤続者表彰式が行なわれた。職員クラブにて永年勤続者表彰式が行なわれ、表彰者94人、うち41名が25年勤続者でしめた。
1972 昭和47年5月6日 学校グラウンドにて、職場対抗ソフトボール決勝大会が行なわれ、大いに賑わった。
1972 昭和47年7月5日 全国鉱山保安週間に伴い、職員クラブにて、保安優良者の表彰式が行なわれた。
1972 昭和47年9月3日 端島労組青年婦人協議会主催納涼大会が行なわれ賑わった。
1972 昭和47年9月24日 島民参加『歩け歩け大会』が長崎半島で行なわれ家族連れで賑わい、健脚を競った。
1972 昭和47年10月29日 島民参加による『みかん狩り』が、西彼杵半島日並で行なわれ、秋の行楽を楽しんだ。
1972 昭和47年11月19日 体育館と公民館を会場に文化祭が4日間にわたり開かれた。
1972 昭和47年12月24日 年忘れ演芸大会が体育館で行なわれ、青婦協対主婦会の紅白歌合戦、漫才などの出し物があり、歌あり、笑いありの楽しい年の瀬であった。
1973 昭和48年1月28日 出稼優良者の島民慰安旅行が行なわれ、雲仙等に出掛けた。
1973 昭和48年2月6日 木造社宅が全焼。午前1時30分頃、24号(木造3階建)3階より出火し、31号アパートを類焼。死者1人を出す大火災となった。
1973 昭和48年2月18日 端島ごみ処理場が完成。総事業費1,703,000円で、メイヤー式処理能力1日当たり1トンのゴミ処理場を建設した。
1973 昭和48年7月13日 落盤事故発生。午前7時50分頃、上片12尺2段払に於いて落盤事故が発生。作業中の4名が生き埋めになり、救護班の懸命な救出作業も及ばず、1名が殉職された。
1973 昭和48年9月7日 端島砿の閉山が、端島労組に正式に提案される。
端島小学校開校80周年記念大運動会を開催。端島砿閉山前の最後の運動会が盛大に行なわれ、全生徒に記念メダルが配布された。
1974 昭和49年1月10日 端島砿が閉山。明治23年に創業を開始し、かつては年間30万トンを出炭するビルド鉱として生き抜いた端島砿も、『採炭可能なスミを掘り尽くした』事を理由に、この日、83年間のヤマの歴史に幕を閉じた。
1974 昭和49年3月31日 端島小中学校が閉校した。
1974 昭和49年4月17日 高島町役場端島支所が閉所した。
1974 昭和49年4月20日 端島が無人島になった。この日の午後4時50分発、端島発高島経由長崎港の野母商船つや丸を最後に、高島―端島航路は閉鎖。この便を最後に端島は無人島になった。最終便になったつや丸の原辰見船長、せい丸の大石末男船長両名に、一ノ瀬喬高島町長より感謝状が贈られた。
1974 昭和49年4月20日 4月20日以降、端島は無人になったが、会社(高島砿業所)による財務整理、撤収作業は続けられた。炭鉱所施設等の解体作業は49年末まで行なわれ、まだ使用可能な機器、設備類は高島に運ばれた。廃鉄材、スクラップ等は業者に売り、12月には高くそびえていた第2堅坑ヤグラも解体された。坑口はボタで埋め戻されコンクリートで密閉されて二度と人の目にふれることは無くなった。坑道は何年後にかは水没し、深い海の底へ消えていく。
1984 昭和59年7月29日 端島砿閉山10周年記念式典が、高島勤労福祉会館で行なわれた。約330名の元端島住民、端島砿関係者が集まった。
1991 平成3年9月27日 大型台風19号が長崎(佐世保付近上陸)を直撃。端島護岸3箇所が決壊。この台風19号は戦後長崎に上陸した台風では最大級(長崎海洋気象台観測最大瞬間風速53.4メートル)で、端島護岸約3箇所(小中学校横護岸、昭和館横護岸、31号前護岸、南部プール付近護岸)が決壊した。この時、昭和館(映画館)が護岸と共に、ファサード部分をわずかに残して完全に崩壊。翌年平成4年、国、県、及び三菱から予算をうけて高島町建設産業課が護岸修復工事に取りかかり、コンクリートミキサー車2台を端島に運び込み、大規模な護岸修復工事が成された。
1994 平成6年10月9日 端島砿閉山20周年の集いが、野母崎町民センターで開かれ、約360名の元端島住民、端島砿関係者が集まった。
1999 平成11年6月6日 端島砿閉山25周年記念祝賀会が、長崎市内のホテルで開かれた。
2001 平成13年11月 高島町が端島を三菱マテリアル(本社東京)より無償譲渡された。
2003 平成15年5月11日 端島砿閉山30年の集いが長崎市のセントヒル長崎にて行なわれ、おそらく今回が最後の集いになるだろうとの事。来賓に、三菱鉱業セメント、森本輝氏、高島町長豊田定光氏、その他多数来席、賑やかな30年の集いとなった。
2003 平成15年6月19日 台風6号が長崎平戸付近を通過。長崎県全域暴風強風域に入った。端島小中学校横護岸側船着き場の海中ブロックが大浪のため動き、船着き場辺りは、船の接岸が不可能となった。12月末現在もまだ復旧作業はされておらず、接岸が出来ない状態である。